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連載日本史203 日露戦争(1)

1904年2月、日本軍は仁川に上陸し、韓国を足がかりとしてロシアに宣戦布告を行った。日露戦争の開戦である。主戦場となったのは因縁の遼東半島。日清戦争と比較すると、日本の臨時戦費は七倍以上、艦隊及び動員兵力は四倍以上に上る、まさに国運を賭した総力戦であった。

日露戦争の展開と戦力比較(heiwa.yomitan.jpより)

戦争に反対した人々も当然ながら少なからずいた。開戦前後に大新聞がこぞって主戦論に回ると、幸徳秋水・堺利彦らは「平民新聞」を創刊して社会主義の立場から、内村鑑三はキリスト教の立場から、「君死にたまふことなかれ」を発表した与謝野晶子は文学者の立場からそれぞれ非戦論を展開した。だが、日に日に高まる主戦論に押され、民衆の多くは大国ロシアに挑む戦争への高揚感に駆り立てられていったのである。

戦費の比較(総務庁資料より)

日本政府は戦費の調達に苦慮していた。国内の増税だけでは到底足りず、外債に財源を求めたのだが、同盟関係にあったイギリスはともかくとして、他の欧州諸国は日本が当然敗北するものと予想しており交渉は困難を極めた。日銀副総裁の高橋是清は金策に奔走し、米国のユダヤ系財閥からの融資を得た。開戦から3ヶ月、日本軍が鴨緑江会戦で勝利すると日本外債は安定し、戦争終結までの借入総額は国家予算の五倍にあたる13億円に上った。日本が勝てば儲けが回収できるという見込みが高まったからだ。結局のところ、戦争への投資は勝ち馬に乗る賭博と同じである。

朝鮮半島からロシア勢力を一掃した日本は、韓国との間に第一次日韓協約を締結した。これは日本政府の推薦する財務顧問・外交顧問を韓国政府に迎え入れ、外交案件について日本政府と協議することを求めたもので、韓国を日本の保護国とするためのものであった。韓国皇帝の高宗はもちろん不満であったが、日本の軍事力に押し切られた形で調印を余儀なくされた。朝鮮にせよ清にせよ、近代化に立ち後れた国は帝国主義列強の植民地となるという弱肉強食の論理が、国際社会の主流となっていたのである。日本はその流れに乗り遅れまいと、無理に無理を重ねていったのだ。

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