連載日本史⑧ 邪馬台国(2)
(a) 邪馬台国が九州にあったと仮定した場合
「魏志」倭人伝では、邪馬台国における倭人の特徴として、「大人・下戸・生口(奴隷)」という身分制度、貫頭衣(いわゆるワンピース)の着用、飲酒の習慣、 物々交換の市場や簡素な刑法・税制の存在など、興味深い記述を残しているが、特筆すべきは「黥面文身(げいめんぶんしん)」、すなわち入れ墨の習慣であろう。男はみんな顔と身体に入れ墨をしていたとあり、これは古代の中国南部の文化や、アイヌ文化に名残を遺す縄文文化にも共通する要素である。
何のために入れ墨を入れたのだろう? 古代中国には刑罰のために入れ墨を用いた例もあるが、男がみんな入れ墨をしていたという邪馬台国では、その説は当てはまらない。考えうるのは個体の識別・身分の表示・成人や婚姻に伴う通過儀礼・身体装飾(ファッション)などだが、近現代の日本において「入れ墨」からまず連想されるのは、ヤクザに見られるような、帰属集団への忠誠を示す証であろう。
入れ墨の習慣が男性に特化されているのは、戦士集団としての結束を示すものであったからかもしれない。当時の九州地方は銅剣・銅矛文化圏の中心地にあたる。いわゆる「武闘派」の拠点である。大和を中心にまとまりつつあった銅鐸文化圏に対峙した北九州武闘派の盟主としての邪馬台国という構図が浮かび上がってくるようだ。
武闘派のリーダーが女王だというのは意外な気がするが、映画「極道の女たち」に描かれているように、いざとなれば女性の方が腹が据わるのかもしれない。英国が世界に覇を唱えたのはエリザベス、ビクトリアと、いずれも女王の時代である。倭人伝には「卑弥呼の死後に男王を立てたが、国が乱れたため、卑弥呼の一族の女である壱与(いよ)を王に立てると治まった」と記されている。邪馬台国九州説の立場から見えてくるのは、カリスマ女王に率いられた武闘派戦士たちによる「仁義なき戦い」のイメージなのである。
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