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日記と公開日記の違いは「そこに読者はおるんか?」

3日前に、過去の日記を捨てるか迷っているという記事を書いた。

そのときに気づいたのだが、わたしは過去の自分の文章すべてを黒歴史と思っているのではないみたいだ。
同時期にやっていたmixiなら目に入っても大丈夫だ。

8年前、実家で飼っていた犬のアルの思い出を書くために、それこそ大学生~社会人数年目のときのmixiを掘り出したことがある。
最初は直視するのが怖くて薄目で読んでいたが、大丈夫なことに気づき、調子もでてきて「なかなかいいこと書くじゃん」って他の投稿まで読んでしまった。

その違いはなんだろう? と考えて「そこに読者はおるんか?」だと気づいた。
えぇ女将さん、「そこに愛はあるんか?」です。

わたしの日記の第一優先は「この気持ちを忘れたくない」だった。だから読み返すときの読者ーーつまり自分を想定していない。
感情を思うままに書きつづったり、あれしたこれしただけのただの記録もあったり、人への恨み辛みの愚痴、自分へ嫌悪の気持ちも書いてる。
まぁ日記とはそうやって好きに書くものだと思う。

対してmixiは友だち限定とはいえ公開しているのだから、文章として成り立っている。
恋人との関係に浮かれていても、公開することとしないことの分別はつけているし、腹立たしいことがあっても愚痴だけで終わると読み手が不快だろうから……と、学びの部分までまとめている。気持ちも言葉で表現されている。

数年経つと、過去の自分が他人のように思えることがある。
なんであんな選択したんだろう? なんであんなことをしてしまったんだろう?
反省することが多いけど、いい結果を残せたときにも、「これ、ほんと自分がやったんだっけ?」という感覚になる。

日記は自分が書いて自分が読むものだから、まとまってなくてもいいと思っていた。
でも「もうあのときの自分って理解できないな〜」と、すっかり変わってしまった数年後の自分が読むのなら、他人へ向けて書く文章のような配慮がないと読みにくいだろう。

そんなことに気づいた日記の一件。
このnoteの文章は読んでくれる方のことを考えて書いているから、数年後に読み直しても黒歴史にはならない……はず?

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