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背守り

「風、風、吹くぞう、風、吹くぞう」
北風は、歌います。

秋、樹々の葉が、じゅうじゅうに色づいて落ちかけるころ、北風は、北のほうからやってきて、いじわるいように吹き荒れます。
びゅうびゅう吹いて、葉を落とします。
冷たく吹いて、あたり一面を凍えさせ、冬将軍を連れてきます。

そして、冬のあいだ、荒ぶったり凪いだりを繰り返します。

とはいえ、北風は、じぶんのしごとをしているだけで、いじわるではないのです。
実際、落ちゆく木の葉たちも、北風のたすけを借りて、土へかえることができるのですから。

おかあさんたちは、先陣の一陣の北風から、冬の予感がすると、はたと慌てふためきます。
おかあさんというのは、なぜか、いつでも、こころもからだも忙しいので、北風が吹いてからでないと、冬を忘れてしまうのです。

子どもたちが北風と一緒に、
「風、風、吹くぞう、風、吹くぞう」
と歌うのを聞いて初めて、冬と北風を思い出すこともあります。
とはいえ、おかあさんたちには、北風の声は聞こえないのですけれどね。

おかあさんたちは、北風がいよいよ吹き荒れるまでには、子どもたちの背守りを縫い上げます。
背守りとは、子どもの肌着の、背中に施す刺繍のことです。

北風は、あらゆる見聞を引き連れて、飄々と、ひんやりと、吹いてきます。
そして、子どもの首のすぐ下の、風門から入りこみます。
しかし、背守りがあれば、子どもは、凍えることなく、風邪を引くこともありません。

背守りの縫い目には、母の〈目〉が、ひと目ひと目、縫いこまれるため、その〈まなざし〉が、子どもたちを守るのです。

そもそも、衣の、たてよこに織られる衣織り自体が〈祈り〉なのですが、織りの目に、さらに目が施されることで、より祈りがこめられるのです。

おかあさんたちの手仕事ゆえに、てのひらから、たなごころが、染みとおってもいます。

〈目〉は、風を通さないのではありません。ちいさくやさしく通します。

北風は、子どものなかへ入ろうとするとき、背守りの目に、まなざしに、祈りに、たなごころに、出逢います。

行く手を阻まれるようなのですが、そのとき、ふしぎなことに、北風も、まなざしを注がれ、祈りにふれ、てのひらに包まれ、まるで背守りに守られるように感じます。

じつは、背守りとは、子どもを守るものでありつつ、北風をなぐさめるものでもあるのです。
背守りは、背中の内側も、外側も守るのです。
内も外も、まるごと包みこむのです。
それゆえ、子どもを守れるのです。

背守りは、内在する子どもの魂が、遠漂浪(ざれき)するのも見守ります。
子どもの魂というのは、あらゆるものに興味津々で、純粋で、軽やかであり、体から離れやすいので、遠くへ行きすぎないように見守るのです。

北風は、もの知りですが、子どもと同じく気まぐれで、子どもにとっては、とても魅力的なものですから、子どもは北風と一緒に遊びたがります。

そうして、もし、魂がうっかり飛び出して、北風と一緒に遊びほうけてしまったときでも、その魂が、ふと、われに返ったとき、背守りを目印に帰ってこられます。

背守りは、ふつう、子どもの肌着の背にあって、肌着を身につけている子どもの目には、ふれません。
遊びほうける魂は、いつもは忘れているけれど、近しくて懐かしい背守りに惹かれて、帰ってくるのです。
だから、おかあさんたちは、子どもたちの魂が惹かれるような、目印として目を引くような、美しい刺繍を施すのです。

背守りは、内と外の境界でありながら、内と外のあわいであり、通路であり、内と外の出逢う場でもあります。
おかあさんのこころと、子どもの魂と、北風の思いは、背守りという、まなざしと祈りの場で出逢います。
この出逢いが、ほんとうに、大切なのです。

なぜって?
内と外の、相互に浸透し合う、めぐりあい、めぐみあいだからです。



Special thanks to Sato Michiko and Pete dad!

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