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収拾付かない蒐集癖 (芥#6)

written by 芥田ほこり


▶ 本棚を眺める

僕は本をよく読む。本当によく本を読む人からすればたぶん全然読まない方なのだが、それでも全く本を読む習慣が無い人が多い現代においては「本をよく読む」と申告しても問題無い程度には本を読んでいる。
図書館を利用するのはあまり好かず、電子書籍も趣味に合わないのでよく本屋に足を運んで面白そうな本を物色することが多い。手に取るのは基本的に文庫本ばかりで、たとえ中身が同じでも単行本に手を出すことはめったにない。
そしてその理由は、価格が高いからという単純なものではない。

僕の自室には縦に長い本棚が設えてある。底板を含め棚板が9枚あるので9段分の収納が可能なのだが、そのうち上下を除く7段を文庫本がぴったり嵌るようなサイズにカスタマイズしてある。今もまだ全部の隙間が埋まっているわけではないのだが、週末に少しずつ買い足してはその隙間をちょっとずつ埋めていく作業自体はまだ続いている。規格が揃っている文庫本というのは本棚への収まりが良くて、収まった時の見栄えがなんとも心地良い。だから僕は読書をすることと同じくらい、集めた本の背表紙を眺める時間が好きだ。

ある時ふと「これは無意識的に始まったコレクションなんだろうな」と気が付いた。
もしもこれがコレクションではないのなら、読んだ本は再読をしない限り手元に置いておく必要は無いはずだ。だから読了済みのそれを古本屋に持っていって得られたお金でまた新しい本を買えば良い。しかし、僕はそれをしない。換金するよりも貯めておくことに価値があると判断したからだ。それは何故なのだろう?

知識は財産だからだろうか。いやいや、知識は「失われない」財産だ。実際に手元に所持しているかどうかは問題ではなくて、頭に蓄えてさえいればそれで良いのだ。かつて筒井康隆の『旅のラゴス』という作品を読んだ時に、そのことを学んだのを覚えている。ならばなぜ、僕はその作品をいまだ手放さず本棚に仕舞っているのか。

コレクションの意義とは、一体何なのか。

▶ コレクションの対象

本を集めるということは、取りも直さず「可視化された己の読書体験」をコレクションしているからに他ならないが、別にそんなややこしいものでなくても世の中には様々なアイテムのコレクターがいる。

切手、腕時計、口紅、プラモデル、トレーディングカード、ぬいぐるみ……。あるいは『おじゃる丸』の登場人物カズマのように河原の綺麗な石を集めている人もいるだろう。もしかすると、赤色が大好きで赤いグッズならなんでも集めているという人だっているかもしれない。電子レンジから下着まで部屋にある一切合切を赤一色に染め上げて楽しむ、それもまた一種のコレクションに違いない。

僕自身は何かコレクションをしていたか、と自問してみると、これがけっこうたくさん思い当たる。
小学生の頃にはビー玉やスーパーボール、折り紙で自作しためんこ、変わったところでいくと使用済みの携帯電話なんかを蒐集していた。
ある程度のお小遣いがもらえるようになる頃には、CD集めに夢中になっていた。今でこそ音楽はサブスクがメインになりつつあるものの、好きなアーティストのCDは今でも揃えている(ただしこれは、コレクション要素とは別にアーティストにたくさんお金を落としたいという動機もある)。
CDよりも高価なDVDは集めたくてもお金が足りなかったので、購入したりはしなかったが、録画したアニメなんかを空のDVDに焼いて、綺麗にラベリングして五十音順に並べて保管して悦に浸っていた。

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最近はより集めやすい形態のものを集めることが多い。
たとえばクリアファイル。安価かつグッズ化されやすい商品だから、というのが集め始めた発端ではあるが、コレクションを始めてみると集めやすいという理由も後から付いてきたように思う。世の中は不思議なもので、紙を収納するためのクリアファイルを収納するためのクリアブックなるものが存在している。僕はそれを買って、透明なページにクリアファイルを挟んでいき、たまにクリアブックを開いては絵柄を眺めて満足している。先ほど不思議とは言ったものの、もちろんこれは僕のような人向けの商品だ。
あるいは、実体は無いもののLINEの有料スタンプを集めることもしている。今でこそ実用的なものをたまに買うくらいになってしまったが、全盛期には使う相手がいないようなスタンプでも気に入れば即買いしており、現状は80個を超えている。

ここまで読んで「そんなことに熱を上げるなんて、馬鹿らしい」と思った方もおられるかもしれない。しかし、本当にあなたはコレクションとは無縁の生活を送っているのだろうか? 小学校の給食で出ていた牛乳瓶のキャップを集めていたり、薬局の前に並ぶガチャガチャを1度だけプレイした後にわかにコンプリート欲が湧いてきた経験などは誰しもあるのではないだろうか。我々は少なからず「ものを集める」ことが好きな生き物なのである。

▶ コレクションの意義

Q. コレクションの意義とは、一体何なのか?

話を戻そう。どうして我々はものを集めたがるのだろう。全て揃えることで白いお皿がもらえるシールでもなければ、神龍が好きな願いを叶えてくれるボールでもなく、何らの達成報酬も発生しない蒐集という行為を自発的に行うのは何故なのだろう。

当たり前だが、私たちが何かのコレクションを始める時、それは必ず好きなものを手に取って並べることから始まる。嫌いなものや興味が無いものは集めたりしない。好きだからこそ集め始めるのであり、好きを集めているからこそやめどきがわからなくなる。

もちろん、コンプリートという明確な終わりの概念が存在する類のコレクションは存在するが、多くの分野では突き詰めればいくらでも突き詰めることができるし、コンプリートのその先とも言えるやり込み要素をいくらでも設定できてしまうのがコレクションの世界というものだ。
たとえば消しゴムのコレクションの場合、何をどこまで集めるかはその人の裁量による。「まずは有名どころを全て揃えよう」から始まった趣味も、目的が達成されると「次は練り消しを集めよう」「海外製にも手を出すか」「食べ物の形の消しゴムを集めるのも面白いな」と守備範囲がどんどん広がっていく。集めて集めて、そしてある時、こう思う。「お金も無くなってきたし、場所も圧迫するから、そろそろやめようかな……」と。しかしそれは妥協だ。消しゴムの熱烈なファンであるところの、他ならぬ自分に対しての妥協だ。自分の消しゴムに対する愛はその程度なのか、たったの300個の蒐集で満足してしまう程度なのかと自問自答をすることになる。世の中には1000個の消しゴムを集めているコレクターがいるという。ならば自分の愛はそれ以下なのかと頭を抱える。そうして買い足す。到達すべきゴールを高く設定することは、それだけ熱意があり愛があることの証明になるからだ。

集めれば集めるほど、それが好きであることが他者によって認められる。そしてそれと同時に、そのコレクションをうっとりと眺めている間は、自分自身の愛を再認することができる。それがコレクションの意義だ。
つまり「コレクションをすることには実益的な意味が無い」もっといえば「場所や時間やお金を費やすだけむしろ実害を被る」ことこそが、コレクションの最大の意義なのである。「それなのに集める」のは「それだけコレクション対象を愛している」ことの裏返しに他ならないからだ。

そう、コレクションとは愛情表現の別名なのだ。

▶ 愛情とアイデンティティ

ところで、愛するということは自分を形作る行為だ。

どんなものにもそれを好きな人とそうでない人が半々ずついるとしよう。私はパンが好きである。それだけで私は2人に1人しかいない存在だ。しかもペンギンが好きだ。エメラルドが好きだ。フルートが好きだ。数字の7、雪の降る静かな夜、メルヴィルの『白鯨』、新しい靴を卸した日の履き慣れないむず痒さ、カップ焼きそばのお湯をシンクに流した際の湯気の匂い、そして愛という言葉が好きだ。それだけでもう私は1024人に1人しか当てはまらない特徴を持つ。好きなものをさらに10個数え挙げるだけで1048576人に1人になり、地球上にいる78億の人類の中から自分を特定するためには33個の質問があれば良い。

実際には、物事に対する好きの程度にはグラデーションがあり、どちらかと言えば好きだという人もいれば、狂おしいほどに好きな人だというのもいる。そして、後者は前者よりもそう多くはない。私はパンが狂おしいほど好きだ。そのステータスだけでそのアイデンティティはぐっと絞られる。

そして、その好きを極限まで突き詰めて「世界一好きだ」と言えたのなら、私のアイデンティティは間違いなく「世界で一番パンが好きな存在」として確立することだろう。

好きを突き詰めるとは、つまりそういうことだ。コレクションを増やすことは、自分を組み立てていく行為に他ならないのである。そして蒐集した品をじっくりと観賞している時、あなたは自分自身の内面を見つめているのだ。

Q. あなたをあなた足らしめている、あなたが本当に溺愛するものは何か?

▶ おまけ:新しいCD販売方法の提案

ある日、任天堂の公式ネットストアである《My Nintendo Store》を閲覧している際、妙な商品が目に入った。「スプラトゥーン2 ダウンロード版(パッケージ付き)」である。何なのだろうか、これは……。ダウンロード版とパッケージ版という2つの相反する概念が同居している。説明書きをよく読むと、ダウンロードコードの購入権に加えて、郵送で空のパッケージのみが送られてくるのだという。意味がわからない。パッケージが欲しければパッケージ版を買えば良いだけだという気がする。この商品はどこに対する需要なのだろう。
当時はそう思ったものだが、今思い返せばそれは、コレクターとしての所有欲を満たしつつも、購入後すぐに遊べてカセットを抜き差しする必要からも解放されるという至上の効率性を追及した、まさに現代のニーズにぴったりの商品だと思う。

消費者がモノ消費的発想から脱却しつつある時代に合わせて、このような一見奇妙にも思える販売方法を導入していく可能性も各業界は検討しなければならないはずだ。

僕が特に憂慮しているのは、昨今の音楽産業についてだ。CDの販売方法について、同一タイトルの商品を通常版・限定版A・限定版Bという形で複数枚リリースしたり、ランダム形式の写真や握手券など価値の高いものを特典として封入する、いわゆる「AKB商法」はもはや限界が来ていると言っても良い。
僕の個人的な意見として、AKB商法を始めたことがいけなかったというわけでは決してない。CDの売れ行き低迷を回避するために、それこそ「所有欲」を逆手にとって同一タイトルを複数枚リリースする手段は頭が良いし、アイドルとの気軽な握手会およびCD本体への握手券の同梱は当時の音楽シーンにおけるエポック・メイキングでさえあると言えよう。
しかし、中身で勝負する販売から付加価値を付けて販売する方法にシフトしたように、音楽のサブスクリプションが主流になりつつある今、さらなるシフトが必要なのではないだろうかと思うのである。

電子書籍が発明され普及しつつある今でも紙媒体を好む人は少なくない。それは恐らく、捲ったり広げたりできる実物としての本が好きだからだ。それと同じ理屈で、音楽のサブスクリプションを便利だと思う一方、CDを集める楽しみが無くなってしまったと嘆いている人も実は多いのではないだろうか。
だからこそ、先ほど述べたような任天堂のゲーム販売方法を真似てみるのは面白いかもしれない。歌詞カードやCD本体はそのままに、その楽曲を1度限りでダウンロードできるコードをケースの中に入れておく。特定の音楽配信サービス上でコードを入力すれば有料だった楽曲が開放されるようになるし、もちろん従来通りの方法でCDからデータを取り込んで音楽を聴くこともできる。そのようにすればCDを読み取る媒体を所有しない若者であっても、歌詞カード見たさに、あるいは所有欲に駆られてCDを買ってくれるようになるかもしれない。
任天堂といえば、かつて全国の子供心をくすぐっていたクラブニンテンドーを参考にするのも良さそうだ。クラブニンテンドーとは「ゲームソフトに入っている黄色い紙を公式サイトに入力するとポイントが溜まっていき、ポイントに応じた限定グッズを交換できるようになる」というシステムなのだが、これを模倣して「アーティストのCDを購入するごとに限定グッズや最新のライブのチケットが交換できるようになる」仕組みは一考の余地がありそうだ。

ゲーム業界で生まれた知恵を音楽業界に持ち込むように、ある業界から別の業界へとアイデアを流用することで問題が解決しそうな事例は他にもいくつかあるような気がする。

なお、僕は音楽に携わる人間ではないので、音楽関係者の方は素人の無責任な妄想をそのまま鵜呑みにせずよく検討してから行動に移すようにしてください(でもって上手くいったら売り上げの2割くらいを僕にください)。