ロプノール日記 ごみと魚と蝶
Mottainai。世界の言葉。
引っ越してきてすぐ仲良くなった近所の干物屋さんで、初めて買った上質のホッケの干物。
大根をおろしてほっぺたが落ちるような夕餉。「オレもホッケ好き!」
と食べ終えたT兄の皿を下げようとして気色ばむ水宮。
「T兄、全部残ってるけど?」
彼は可愛らしく
「ん?」
というように私を見た。身だけ食べてあとはぜんぶ残してたのだ。
ホッケはアイナメの仲間。つまり柔らかく薄い皮も醍醐味。が、年上で静岡出身とはいえ既製品やマック大好きな彼にとって魚は身以外は捨てるもの。
お昼にその残りをこんがりパリッと焼いて食べる。甘い脂と濃い旨み、チップスみたいな歯応え。残り物の安いさつま揚げとねぎ・生姜を添えて、納豆の器は娘の頃茶道を習ってた母が「なんとか鑑定団」を観て金にならんと捨てようとしてたのを「待たんかいよこせ」と奪取していつも使ってる例の茶器。実際なんの価値もない。
美味しい。
何もかも。
焼酎に合いすぎる。
だからって何もかもとっとけよとは言わない。ゴミを食べろともゴミ屋敷にしろよとも。
近所の畑で採れた大根を、優しそうなおじいさんからたったの100円で買った。
立派な、大きな、美しいものだった。
この痩せたかたが毎日、どれほど手間をかけられたのだろう。
彼の笑顔のごとく、なんてみずみずしく美味しそう。
おじいさんは泥を洗い落としてくれようとし、ビニール袋も用意しようしてくれたが断った。
「大丈夫ですよ、うちで洗うし私袋持ってるもん」
「でも最近の若い奥さんなんてそうしないと買ってくれないからさ」
「そんなのうちで洗えばいいもん。うちだって水道くらいあるもの」
私が笑って受け取る時、おじいさんはあっという顔をして、葉を切ろうか?と言ってくださった。
「いやよう、くださいよう!葉っぱ好きなんです!しょう油と七味と炒めてごはんにかけて食べるの大好きなの」
おじいさんは嬉しそうに目を輝かせた。
「へえ?あんた、葉っぱ食べるのかい?」
「ウン!」
それは私が子供の頃、当たり前のお菜だった。
いっぽう、先日の休み。
T兄はやっとお仕事が軌道に乗り始め、それでもまだ大変なのにマックを取ってくれようと私にメニューを見せてくれた。私にすれば高級品だった。
もちろん彼の大好物だし、世界中のみんなも大好きだ。
「サムライマック、って憧れてるんだよね私」
「じゃ二人でそれ一個ずつとポテトのLでいいか」
世界共通のあの包み紙を開けて、春の昼下がりのお部屋でそれにかぶりつく。
「美味しい〜‼️」
捨てるはずの魚の皮も、大根の葉っぱも、うちにとってはたまのぜいたく品のマックも、それぞれみんなご馳走だ。
不思議。すべて私や彼の体を作ってくれる。
私たちの体もいずれはなくなるけれど、こうして私たちの身を養ってくれた膨大なものたちの役に今度は立てるかな。
こういうこと思って言ったりしたら、どうして「おまえは気味が悪い」って言われるのかな。家族とかにも。私は別にそれで怒りはしない。言わないでおけばよかったな、と舌を出す。舌は味わうのみにして黙って、焼かれるその日まで口は微笑んでいるのみ?
「生き方だけで示せ。分からん奴は放っておけ。いっけん賢く見えたりそう見せてる阿呆もいるからな。お前は自覚ある上に卑下をやめて正当な誇りを持った。大丈夫だよ。どうせ皆淘汰される。お前は何もせんでいい」
微笑んで優しく撫でてくれる手。よく知る手。
わかる人だけわかればいっか。
ついでに言うと、猫は可愛いだけじゃなくてほんと生き物どうし対等に付き合ってるよ、って言うと、なんでやっぱり怒られるのかな。子育て?わからんな。どっちが下とか上いう考えもないから知らないわ。大げんかするけど友達みたいな感じ。
ほかのヒトには怒られたりああしろだの言われるけど、別にいいわ。ちゃんと毎日仲直りする。ヒトとよりそれは早いな。
相手が誰であれどんなことであれ言い方や表現はともかく、誰かが誰かに「おかしい、変だ、ダメだ」と言ったその数だけ、いかに身近な所とはいえ多分そこから分断の亀裂は入る。そうして世界をずたずたにすることに草の根から加担するのはもうしたくない。笑ってる。あなたが好きだもん。それだけだもん。
で、我慢も作り笑いもしないでまんま、こうして在れてる。
みんな、そうだ。
「みんな違ってみんないい」はそろそろ間に合わない。
「誰もなにも違わない」。
笑いかける。
むすっとした人に。挨拶して私はそのまま行ってしまう。
会えてよかった。ご縁があればいつかね。いい一日を、あたたかくきもちよく過ごしてね。
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