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Eau de vie

小学校低学年の理科の授業で、組織液というものを習った。
血液のベースの水みたいなもの。ひざをすりむいてかさぶたができて、はがすと流れるあの透明な液体。からだのいろんな臓器や器官に出入りして、老廃物を受け取って行き、栄養をあげてくる。でもどこにも属さない。
「私はこれなんだ」。
何故か思った。



掃除は好きだった。
その頃から、誰もやらない学校の流しの排水口の掃除なんかを放課後勝手に一人でやっていた。
理由?
ほったらかしの水道がかわいそうだと思っただけ。
誰にも見つかったことはないし。



どこにも属せないのはずっとだった。
変わり者と見られるのはコンプレックスだったが不思議といじめに遭うことはなく、かと言って確固とした居場所が在るわけでもない。
おなじみの自己確立に悩み、学校ではなく原家族にはじかれた。高校生、17才の時いわれもなく出て行けと言われ、バイトしながらなんとか卒業した。


何処へ。
放浪しては、生活力がないから実家に帰り、また長期間明けてはそうせざるを得なくなり戻る。精神病院に入れられる。
大切な人たちはなぜか死にまくる。自分も生きる意欲を早々に無くしていた。



つまり、何かどこかに、絶対的に無理があるということだ。負荷がかかっている。それが自分にも周囲にも負のかたちで出る。またそれを負だと被害妄想的に捉えてしまう。



それを自分のせいや世の中のせいや他人のせいにするという思考、なおも自分は間違ってないんだと思いたがること。
嗜癖は山をなし、でも宗教は怖くて近寄れない。
そもさん、せっぱ。



ふわり、と空中に連れ出してくれた事案がいくつかあった。
命が、魂が助かった。
アレ?
私、嫌だったんだなあ。死ぬのはまだ。
じゃ、どうする?
組織液さんよ。


可燃ごみの日の朝に近所を掃除する。子どもの頃と同じように、誰にも頼まれず誰にも見られぬよう。
田舎って、綺麗なんだと思っていた。
生まれ育った東京よりゴミが多い。
ゴミの捨て方も「ありゃりゃ」て感じ。
別に腹は立たない。
「俺がやらなきゃ誰がやる」というダイ・ハードのジョン・マクレーン的悲壮な犠牲精神もない。


ただ掃除が好きなのと、教わった営為としてする。
みんなが通る道。
そして生き物も。いつしか信じるようになっていた、名まえのない神さまたちもきっと通る道。だから綺麗にしておきたいんだ。


こんな外様の私に、近所の皆さんはよくしてくれる。
私が捨てるのはお賽銭や募金箱へのたまの小銭くらいだが、あれは民俗学の本に書いてあるアレ。些細な穢れを預ってもらうってだけ。殊勝なことなんかない。
それが正しく使われようと悪人が着服しようと知ったことじゃない。
着服した人は自ら色んな人のケガレ呪いを知らずと受けてしまうことにはなるが、仕方ないよね。ゴミの山に勝手に入って盗んだ結果怪我したり感染症になるようなもんで。



人は人。私は私。
生き物は生き物。
花は花。空は空。
水は、水。
でも、みんな連なっているよ。
一人ぼっちじゃない。



私を疎んじて連絡を絶っていた母が急に連絡してきた。
夢に祖母が現れて、
「水音をもっとちゃんとしてやれ!」
と怒られたのだという。 
ふうん。おばあちゃんが?
何気なく和やかに母と話した。
83の母は昔と変わらない。今日もテレビに夢中だ。


先日、アパートの人どうしでなんだか集まって宅飲みした。
沢山笑った。
でも聞いていた。
人間(かつては「人間」という言葉は「世間」を意味した)に倦み疲れ心身が溶けかけていたり、密かに復讐を思っていたり、人はするのだな。
私もかつてはそうだったな。


夜明けに、不思議な声の鳥を聞いた。
だから鉢植えの世話をし、やっぱり外を掃き、ドアを磨き、料理し、部屋で踊った。いつもの日々。

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