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渡し守 第二話

【第二話】 少女

 今日も、いつものように薄曇りの天気。風もない。川はいつもと変わらずにゆったりと流れている。ここ数日は誰も来ない。渡しの仕事はない。正直、とても退屈だ。土手に腰を下ろして対岸を所在なく眺めていたら、背後からぽんと声をかけられた。

「お兄さん」

 おや、珍しい。どのお客さんも穏やかで覇気のない声しか出さないのに、声がとても明るい。振り返ると、十六、七歳くらいの女の子が屈託のない笑顔で私を見下ろしていた。ぽちゃっとした丸顔で、目がぱっちり、くりくりっとしている。愛嬌のある顔だ。
 明るいオレンジ色のトレーナーと膝丈の紺のプリーツスカート、白いソックスに赤いスニーカー。肩までの黒髪を後ろで二つに分けて、髪ゴムで留めている。背丈はそれほど大きくない。私は背が高いので、立ち上がるとその子を見下ろすような格好になるだろう。

「なんですか?」
「お兄さんが、ここの渡し守?」
「そうですよ」
「そっか」

 女の子は私の方に歩み寄って来ると、隣にちょこんと腰を下ろした。

「お仕事、ご苦労様です」

 ぺこっと頭を下げる。ふむ。こんな風に私自身に目を向けてくれた人は初めてかもしれない。これまで来たどの人も、対岸のことしか頭になかったみたいだから。
 女の子は顔を私に向けると、質問をし始めた。

「えーと、お兄さんは、この辺りのことは詳しいの?」
「さあ。私には渡し守の仕事をする以外の興味はないので、それはなんとも」
「うーん、そっか。じゃあ、自力で探検しなきゃならないってことね」

 探検? ほう、探検ですか。なかなかおもしろい発想だなあ。

「お兄さんは暇なの?」
「暇といえば暇かもしれませんね。川を渡りたいというお客さんが来ない限り、私はこちら側でぼんやり待っているしかないから」
「じゃあさ。ちょっとわたしの探検を手伝ってくれる?」

 ふーむ、どうしたものか。あまり露骨にサボると、お母さんに何を言われるか分かんないからなあ。

「ちょっと待っててください。伺いを立ててみます」
「え? ボスがいるの?」
「いますよ。この仕事は雇われなので」
「そうなんだ」

 携帯端末を取り出してメールを打つ。女の子に探検の手伝いを頼まれたんだが、つき合っていいか? すぐに返事が来た。

 『いいですよ。その子が充分納得するまでつき合ってあげなさい』

 ほう。お墨付きだ。それならそれで構わない。私も同じことの繰り返しで、いささか飽きていたし。女の子の気が済むまで探索を手伝ってあげることにしよう。

「ボスの許可が出ました。お付き合いしましょう」

 嬉しそうに微笑んだ女の子が、私の名を尋ねた。

「あなたのお名前は?」

 さあ、困ったぞ。

「ええと。私に名前はないんです。この仕事をしていて名前が必要なことはないので」
「ええっ! それっておかしくない?」

 そう言われましても。事実そうなんだもの。女の子は、膝に頬杖を突いたまま私の目を覗き込むと、唐突に提案した。

「じゃあ、大きな川を渡す人ってことで、大川おおかわわたるさんってことでいい?」

 なんか安易だなあ。まあ、名無しの権兵衛とかよりはましかもしれない。

「それでいいです。異存はありません」
「じゃあ、わたるさんって呼ぶね」
「ご自由に」
「わたしは希乃まれののぞみ。のぞみ、でいいわ」
「はいはい」
「はい、は一回!」

 うーん、なんか強気な子だね。

「で、のぞみさん。どこから調べます?」
「ちょっと、この辺りを歩き回ってみたいな」
「いいですよ」

 ゆっくり立ち上がって、尻に付いた土埃をぱんぱんと叩き落とす。のぞみさんも、ぱたぱたと枯れ草の切れ端を払っている。考えてみれば、私はこれまで渡し場の周囲から一度も離れたことがない。この辺りがどういうところなのかを全く知らないのだ。
 のぞみさんはきょろきょろと周りを眺めながら、川上に向かって土手沿いにとことこと歩き始めた。私もゆっくり後を追う。道は二百メートルくらい行ったところでゆっくり下り道になり、川に突き当たって途切れていた。川端に立ったのぞみさんは、上流をじっと眺めている。左手には花で溢れた対岸が見えるが、前方から右手にかけては、川面以外何も見えない。まるで、そこから先はもう何もないと言わんばかりだ。
 突き当たりを右手に折れて、今度は岸沿いを歩く。小砂利を敷き詰めたような川岸を踏みしめつつ川向こうを眺めるが、やはり何も見えない。本当に何もないのか、もやっていて見えないのか、それは分からないけれど。岸は緩やかなカーブを描いて、船着き場に至る。
 こうして歩いてみて、私は初めて自分のいる場所の状況が分かった。そうか。ここは大河の真ん中にある三角洲だ。それもさして大きくない。どんなにゆっくり歩いても、十五分もあれば一周できてしまう。三角洲は台形になっていて、中央の部分は水面から三メートルくらい高くなっている。縁はどこも緩やかな斜面だ。三角州の真ん中には何本か低い木が生えていて、あとは草に覆われているだけ。他に目につくものは何もない。
 のぞみさんは、自分の今いる場所の状況が掴めて逆にがっかりしたみたいで、船着き場近くの土手に力なく腰を下ろすと項垂れてしまった。

「はああっ」
「どうしたんですか?」
「わたるさん、この状況は変だと思わない?」
「どうして?」
「わたしたち、どこから来たの?」
「さあ」

 そんなことは考えた事もなかったなあ。

「それは私の仕事にはなんの関係もないので、考えたことがなかったですね」
「のんきねー」
「そうなんですか?」
「はあ」

 呆れたように、私の顔を横目で見る。

「と言うことは、もう少しましなところに行くためには、対岸に行かなくちゃならないってことね」
「そうでしょうね。でも」
「ん?」
「対岸に行ったら、もうこちらには戻れません」
「そうなの? どして?」
「そういう決まりなんですよ。理由は私に聞かないでくださいね。ボスにそう言うように命令されているので」
「ふーん」

 のぞみさんは私から目を離すと、対岸の花畑をじっと見やっていた。

「ねえ」

 唐突に、のぞみさんが私の袖を引っ張る。

「なんですか?」
「お腹空かない?」

 うーん。空腹という言葉は知っていても、それがどんなことかわたしには分からないからなあ。お母さんに聞いてみるか。早速メールを打つ。

『のぞみさんはお腹が空いたのだそうですが、どうしましょうか?』

 すぐに返事が来た。

『上の茂みの下に二人分のお弁当を置きましたので、食べてください』

 ほお? こりゃ手際がいいなあ。立ち上がって茂みに近づくと、確かにそこに紫色の風呂敷に包まれたお重が二つ置かれていた。

「のぞみさん、お弁当の差し入れがあるようです。食べますか?」
「あ! そうなの? 嬉しいなあ」

 ぴょんぴょんと跳ねるようにして、のぞみさんが私のいるところまで駆け上がってきた。そして、風呂敷を受け取って頭上に掲げた。

「わーい。お弁当だー!」

 無邪気に走り回ってる。そんなに嬉しかったのかなあ。私にはどうにもぴんとこない。
 土手に二人で並んで、お重の蓋を開ける。

「うわあ! 豪華あ!」

 と言われましても。私には初めて見るものばかりで何とも。黒くて平たい箱の中に、カラフルな部品のように何かが並べられている。これを「食べる」ということか。

「わたるさんは、ご飯はたくさん食べるの?」
「さあ。分かりません。ご飯を食べたことがないので」

 のぞみさんが絶句しているけど、事実だからなあ。

「どういうこと?」
「私に聞かないでくださいってば」

 お重を膝の上に乗せて食べ始めたんだけど、どうしようもなく戸惑ってしまう。私は箸を持ったことがないんだ。これをどう動かせば「食事」ができるんだろう。棒二本を指で器用に操って食べ物をぱくぱく頬張っているのぞみさんが不思議でしょうがない。

「うーん、これでよく食べ物を口まで運べますね」
「わたるさんは不器用ねえ」
「しょうがないですよ。私が教わったのは舟と竿の扱い、会話の調整、それに携帯端末の使い方だけですから」
「そうなの?」

 ぼろぼろ食べ物をこぼす私を見兼ねたのか、のぞみさんが自分の箸で、ご飯やおかずを私の口に入れてくれる。

「なんか子供みたいね。わたるさん」
「すみませんね。お手数かけて」
「いや、いいんだけどさ」

 もぐもぐ、ごくん。ふむ。食事をするっていうのはこういうことか。私が一人で納得していると、のぞみさんがふと首を傾げて私に聞いた。

「ねえ、わたるさん。このお弁当、おいしい?」
「さあ。私にはこれが初めての食事ですから、おいしいかそうでないのか、分かんないですね」
「ふーん」

 変顔をしたのぞみさんが、箸を動かすのを止めて水面を見つめた。納得の行かないことがあるんだろう。

「なんかね。おいしいんだけど、どこか違う」
「違うって、どこがですか?」
「分かんない」

 それから、のぞみさんは無言でお弁当を食べ続けた。しばらくして携帯が鳴った。お母さんからメールだ。

『茂みの下にお茶の水筒を用意しました。食べ終わったお弁当は同じところに置いておいてください』

 さて、お茶っていうのはなんだろう? 立ち上がって茂みの中を覗く。そこに、大きな銀色の水筒が置いてあった。

「のぞみさん、お茶の差し入れがあるようです」
「あ、飲む飲む」

 水筒を持って土手に戻った。慎重に水筒の蓋を外し、中蓋を緩める。水筒を傾けると、湯気とともに薄緑色の液体が流れ出した。これがお茶、かあ。

「あ、緑茶ね。おいしそう」

 のぞみさんは、そう言ってお茶を口に含んだ。でも、さっきのお弁当の時と同じように、なんとも形容しがたい表情になった。

「う……ん、なんか違う。なんだろ」

 そう、言われてもなあ。私も飲んでみたけど、こういうものかってことしか分からない。ましてや、おいしいかどうか聞かれても。おいしいって、そもそもなに? ともあれお弁当は食べ終わったので、空いた重箱を風呂敷で包み、水筒と一緒に茂みの下に戻した。しばらくしてそこを覗いた時には、もう何もなかった。
 のぞみさんは、それからしばらく土手に座って、じっと何かを考え込んでいた。私も特にすることがないので川面を眺めていた。いつもと同じように、ずっと。


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