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できそこないの話

自己主張のしない子供だった。人と衝突することが嫌で、誰かと議論をしてまで自分の意見を通す意地もなく、声の大きい者に上辺だけ従っていればいいと思っていた。また、なんにでも本気になれないという悪癖があって、まるで、自分の背後にもう一人の、常に熱くなることのできない自分がいて、本心にそぐわぬ譲ってはいけない大切な時、真剣にならなければならない本当の時に、いつも冷徹で客観的な不貞腐れた意見を発言し、心の中わずかに芽生えた情熱にいつも水を差していた。

小学生の頃クラスの美化委員に属し、クラスの美意識を啓蒙するためのポスターを作ることとなった。リーダーシップを発揮して会話の主導権を常に握るA君は、どうしてかポスターの作成者として私に白羽の矢を立て、私は内心嫌々ながら反論もせず従った。幼い頃から人の顔色を伺うような卑屈な私は、人から頼まれたものは真面目に取り組む奴だった。丸一日かけて内容や色合いが地味だが、私なりの意図が他の人へ届くようなポスターを作成した。しかし、完成したポスターを見た周りの人たちは、私の思惑、ポスターの出来栄えに納得せず、テコ入れを要求した。と、いうより、その後のポスター制作は、彼らが主導権を握り、大勢にウケを取り入れるようなポスターに改定され、私の意見はまったく捨てられてしまった。いつの間にか蚊帳の外に追いやられた私は、それらの一部始終を見て、(まあ、どうでもいいや)なんて、心の中で呟いていた。

話が飛んで、安岡章太郎の『サアカスの馬』という短編小説がある。著者の中学生当時の自伝的な作品で、中学校の教科書に採用されるほど、有名な作品らしいが、私の通っていた中学校の教科書には採用されていなかった(当時私が見落としただけかもしれないが)ので、成人後、私が著者の作品を読み漁っている時に、この作品を知った。その主人公の印象的な口癖がある。

(まあいいや、どうだって。)

周囲になじめず、勉強・運動も駄目で、嫌なこと、苦しいことに遭遇するたびに、主人公はこの言葉を心の中で呟く。

この短編を読み、この言葉を見た瞬間、昔の記憶が呼び起こされた。まるで自分のことだと思った。勝手な共感かもしれないが、ただ、通り一遍ではない文学の世界の多様性に、やる気のない少年を肯定してくれた優しさに、救われた気持ちになった自分がいる。

子供のまま大人になったようないい加減な私は、ままならない現実にぶつかったとき、未だにこんな言葉を呟いたりしている。

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