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街のあかり

生きることに不器用なせいで、かなしい方に向かってしまう人に惹かれてしまう。それは、自分自身がかなしい生き方をしていて、共感を覚えるからかもしれない。まるで不幸や悲劇に酔っているナルシストみたいな言い方をしてしまったが、もっと単純に言えば、かなしみには様々なストーリーが垣間見える気がするから興味深く感じるのだと思う。

以前に書いたかもしれないが、ロシアの文豪トルストイの『アンナ・カレーニナ』の作中で、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」という一文があるが、かなしみにはその通りに、多種多様で、決して一律でないストーリーが付随しているような気がする。

客観的な醒めた視線からみれば、現代社会で上手く生きられない人は、うだつの上がらないしょうもない人達にしかみえないだろう。特に、これから輝ける未来が待っていると希望に胸膨らませる青少年ほど、落伍者への視線は辛辣なものになるのかもしれない。しかし、その年頃にはなかなか気付けないかもしれないが、誰もが望みもしない不幸な状況に向かってしまう可能性はあって、明るい未来しか考えていない人程、その落差はキツイ現実となって突き付けられるし、現実を認めらずに人生を投げてしまう人もいるかもしれない。

この投稿のタイトルにしたフィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの『街のあかり』(カウリスマキ監督の敗者三部作の一つ)の主人公は、生きることに不器用で愛に一途で人間関係が苦手ながらもいじらしく生きている。権力者に利用され、不幸な状況に貶められて、どんなに身も心もボロボロになりながらも、一人で孤独に生きる男が最後に発した不屈の一言は、美しく誇り高い生き方を示してくれる。

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