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台風が来るたびに、父が歩けなくなった日のことを思い出す

はじめに(ちなみにこの後、ゴリゴリに重い話を書きます)

2021年産新米の収穫が始まりました。就農2年目の今年は、おかげさまで去年よりも少し心と体に余裕をもてています。今のところ、新米の仕上がりも去年よりぐっといいものができ、一安心するとともに、ささやかながら自分の仕事に自信と喜びを感じられつつある、そんな今日この頃です。

とはいえ、米作りは自分ひとりの力で行うことはできません。土づくり、苗づくりから収穫・出荷販売まで、1枚の水田でお米ができて、お客様の食卓に届く間に、見えるところ、見えないところで本当に多くの方が関わってくれています(特に私の場合、基本的には週40時間、会社勤めをしながら米作りをしているので、職場の皆さんの理解と協力のおかげで農業を営むことができています)。本当にありがたい限りです。

多くの方の協力が得られてなお、コントロールできないこともあります。その最たるものが自然災害です。全国的にお米の収穫が行われる9月~11月頃は台風が多く発生しますが、台風が上陸しないことを私たちは(いえ、誰もが)祈りますよね。お米の場合は「台風で稲穂が倒れる⇒倒れた部分が水に浸かって腐ったり、一気に品質が落ちる、しかも刈り取り作業の労力が激増する」と踏んだり蹴ったりです。

私も多分に漏れず、いち生産者として、日々の台風の挙動から目を離せずにいますが、ごく個人的にも、台風が来るたび、否応にも思い出してしまうことがあります。2年前に亡くなった先代(父)のことです。今日はそのことについて書こうと思っています。このことについて書くことは、必然的に自分の就農の経緯などについても明らかにすることになるのですが(というより「就農の経緯について書こうとすると、父の死について書かざるを得ない」が正しいかも)、今の自分の気持ちの一つの整理の形として、お付き合いいただければ幸いです。

台風の夜、私は末期がん患者と河川の見回りに歩いた

ちょうど2年前、2019年10月に台風19号が東日本を直撃しました。各地で甚大な被害が生じ、多くの方が命を失いました。まだ2年前のことですので、鮮明に覚えている方もいらっしゃるかと思います。

私の暮らす静岡県沼津市には狩野川という河川が流れています。沼津市を含め、伊豆近辺に生まれ育った方は、きっと一度は1958年に起こった「狩野川台風」の話を聞いたことがあるでしょう。私も祖父母から何度も狩野川台風の話を聞いて育ちました(曽祖父らが村総出で土嚢を積み上げて水門を作ったとか、あの大被害の後に堤防の整備が進んだとか)。

2019年の台風19号は「狩野川台風を超える強さ」と報道され、1958年当時より水防設備が整備されていたため、当時ほどの被害には至らなかったものの、多くの方が「そう」実感を抱いた、少なくとも私にとってはとてつもない大きさの台風でした。

台風19号に関してどうしても忘れられないのは、暴風雨のなか、狩野川のひ管監視員の任期中であった父と2人で、夜中に何度も冠水状況の見回りに行ったことです(「ひ管」の説明は割愛しますが、水防監視に関わる特別職公務員を、自治会経由で数年交代で担当していると思ってください)。

当時59歳の父は、ステージ4の肺がんを患っていて、入院治療をしつつ、本人の強い希望により一時退院していた最中でした。台風が過ぎ去った2日後、父は再び体調を崩して入院し、次に会ったときには下半身不随になっていました。

2019年6月から9月までのこと

少し遡ってお話します。水稲専門の専業農家である父の病気が分かったのは2019年6月、そのシーズンの田植えを終えた後でした。春の作業のときから(あるいはその前から)体調に異変を感じ、病院で検査を受けたりもしていましたが明確な答えは得られず。当人も田植えが終わるまではと無理を押して仕事をしていましたが、別の病院で検査を受けるなどして、6月後半にがんの強い疑いがあることが明らかになりました。図らずしも、5月に初孫(私の娘)が生まれ、里帰りを経て、孫が我が家にやってきた2週間後のことでした。生後間もない彼女の顔つきは、誰よりも「父方の祖父」に似ていました。

7月に入ってすぐ、近隣のがん治療専門の大きな病院を受診することになりました。午後からの受診ということで、会社を早退して病院に行ったところ、父は車椅子に乗っていました。最初の検査を受けてすぐに車椅子対応に切り替わり、2回目の検査室を出たときには既にストレッチャー対応、そのまま即日入院。その日のうちにステージ4の肺がんという診断を受けました。

その夜は、帰宅後に母・私・妻・妹ふたりの5人でLINEグループを作って連絡を取り合うようにしたことだけ覚えています(ちなみにこのグループLINEは現在も日常的に使っています)。

最初の入院は、7月から8月半ばにかけて、約1か月半に及びました。放射線治療と抗がん剤治療を受けるも劇的な症状改善には至らず、それでもこの頃は回復の希望を見込みながら、日々を過ごしていました。水田の作業は母と私で行い、スマホで撮った稲の写真を病院で父に見せて指示を仰いでいました(父は非常に職人気質のところがあり、データはめちゃくちゃ見るのですが、書き起こさずに脳内メモリで全部処理して作業指示だけ細かく出してくるタイプです)。

そもそも私も、昔から休日に農作業を手伝ってきた、とはいっても、お米の栽培管理についてはほぼド素人に近かったので、父が何を言っているのか全然分からない状態でした。見かねた父が後輩農家に「こいつに出穂について田んぼで現物見せながら教えてやってくれ」と頼んだレベル、と書けば伝わるでしょうか。私が当時できた仕事のスキルを書き出してみると、せいぜいこんなところだと思います。

・トラクターでの耕起作業(機械の設定は殆どできない)

・フォークリフトの運転(スーパー下手)

・播種や籾摺りのライン作業のごく一部(機械の設定調整は一切できない)

・稲刈りのサポート作業(コンバインのオペレーションはできない)

・力仕事全般(苗を広げる・積込むとか、米袋を担いで配達するとか)

この頃辛かったのは、周りの人に殆ど状況を伏せていたことです。父はとにかく人に弱みを見せたがらないので、病気のことを話したのは、家族を除けばごく近しい親族、うちで働いてくれているパートスタッフ数名のみでした(私は今後のこともあったので、職場の上司には話をしましたが)。当然、田んぼで一切父の姿を見かけないので、周りの農家からも心配はされていましたが、可能な限り誰にも言わない生活が続きました。

それなりに全身の痛みが落ち着きを見せつつあった8月半ば頃、父が退院しました。それに併せて娘のお宮参りを組むことができ、杖をついて歩く父を連れて、妻の両親とも一緒に、7人で写真撮影、お宮参り、レストランでの食事をすることができました。

9月に入り、本格的に稲刈りのシーズンが到来。父の病状も安定しないなか、私は3か月間、会社を休職し、自宅で父の介護をしながら農作業に携わることになりました。そんな中、ちょうど明日から稲刈り開始というタイミングで父が再入院しました。自宅でひとり準備作業をしていたなか、急に暗闇に放り出されたような気持ちになりました。今思えば、出来ないなりに自分ひとりでコンバイン乗る準備をしておけばよかったとも思うのですが、いきなり5条刈りの機械を調整込みで一人で操作する余裕は当時の自分にはなく、父も乗りながら教えるつもりでいたところがありました。

やむなくスタートを一日遅らせ、当日はオペレーターとして、専業農家をしている伯父を頼む形で収穫が始まりました。その現場に、再入院3日目の父がタクシーで乗り込んできたときの衝撃たるや。父は半ば無理やり病院に許可をとりつけ、午後のみという約束で一時帰宅してきたのです。コンバインの運転は、乗り降りを含め身体に結構な負担がかかります。全てのオペレーションはしないものの、有無を言わさない雰囲気で、周囲3周を父が刈り取り、他のスタッフに引き継ぐという形で、数日間は作業を行いました。

その間に私は父や伯父にコンバインの操作方法を教わり、なんとか最低限のオペレーションができるように…は簡単にはなりませんでした(籾摺りラインの調整管理は習得しましたが)。それでも周りの協力もあり、幸いにして3週間ほど晴天が続いたこともあり、9月の稲刈りは予定通りに終えることができました。あまりに父が外出を希望するのもあり、2回目の入院から2週間ほどで父が再び退院。退院後の父は、自分が任せられる(と本人が思える)作業は極力他のスタッフに任せ、家にいる間はずっとベッドで横になっていました。

9月の後半には地域の体育祭(田舎なのであるんですね、そういうのが)があり、当時、区の自治会長をしていた父は、瘦せ細った足で杖をついて現れました。さすがにこの頃には近所の人たちには入院のことも伝わっていたので、突然公の場に、盛大な虚勢を張って出てきた父の姿は、だいぶ会場をザワザワさせました。皆に心配されたくないのか、打ち上げの席で大口を叩きまくる父の姿には、内心ヒヤヒヤし通しでしたが、酒の席が好きで(勿論飲みませんでしたが)、人と話すのが大好きな彼らしい「部落の役員としての筋の通し方」ではありました(尤も、その場の全員に大きな心配をかけていたことは言うまでもありませんが)。

嵐の前のこと

10月に入ってからも父は入院せず、数日おきに病院に通うという生活が続いていました(一度、深夜にトイレに立とうとして倒れ、車で病院まで運んだことがありましたが、数日も経たずに自宅に戻りました)。当初計画していた抗がん剤治療は功を奏せず、しかしまだ別の治療法がありますよ、という淡い期待を抱えながら、怒涛の収穫シーズンは進んでいきました。

うちの場合、10月以降は作業受託(人から依頼を受けて稲刈り・乾燥・選別を行う)がメインになってくるのですが、100%は請負えないので、出来ない分についてはやむなく断る、あるいは他の業者を紹介するという形で仕事量を調整していました。あるお客さんが訪ねてきたときに、私は面識がなく、手土産を受け取ってから「今年もお願いしたい」「すみません、今年はちょっと難しくて」と断わらざるをえず、手土産だけ頂いて帰っていただくことがあり、めちゃくちゃ気まずかった…

休みのない日が続いていたこともあり、稲刈りの合間、機械の清掃作業を業者に頼んで、娘と外出したことがありました。自分ができる仕事なのに余計な費用かけちゃったなと思いながら、怒られる覚悟で父に報告すると、「いいよ、そうだよな、こんな毎日でストレス溜まるよな」と言われ、胸がいっぱいになりました。

台風19号が来たときのこと

さて、ようやく台風19号の話に戻ります。どうやら凄い台風が来るぞ、と騒がれていたときのことは正直全く覚えていないのですが、父は台風に備えて病院に移るという選択はとりませんでした。父の体調も比較的落ち着いており、また当人も自宅で過ごす意向を強く持っていました。嵐のなかで急に具合が悪くなったらどうするのか、と言われれば全くその通りなのですが、この頃には私たち家族もだいぶ感覚が麻痺していたのかもしれません。

10月11日の夜。いよいよ翌朝には大雨が降るというところで、父から「ひ管」の鍵を預かりました。該当するひ管は、当時、父ともう一人近所の方が監視を担当していたので、父の代わりに監視作業に入るにあたり、もう一人の方と打合せをして翌日を迎えることとなりました。

10月12日。朝から既に相当な雨風の強さのため、早々にひ管を閉門し、河川が堤防の外から中に逆流しない状態を作って監視体制に移りました。私が所属する消防団でも警戒態勢に入っていたため、消防団とは連絡をとりながら、バリケードの設置や巡視を行いました。

夕方に一度帰宅すると、置き型のLEDライトと発電機が玄関に置かれていました。自宅はまず浸水しない高さではあるものの、停電のおそれがあるためです。玄関を上がってすぐの居間に電動ベッドを置き、何かあったら家族全員で居間に集まって夜を過ごす形をとりました。

日が暮れた頃に停電が起こりました。電線の断線によるもので、一時的には近隣ほぼ全域が停電の状態となり、発電機で最低限の明かりと電動ベッド等に必要な電源を確保しました。狩野川は並々と溢れ、あと数メートルで堤防が決壊するというところまで水が来ていました。

嵐の夜、我が家には8人の家族が過ごしていました。その中には病の父、95歳の祖父、87歳の祖母、生後5ヶ月の娘が含まれます。私は1時間おきに外の見回りをして、戻っては家族の状況を確認していましたが、今考えればそこまで自分で見回りに出る必要はなかったように思います。緊迫した状況のなかで、どうにも暴風雨の外にいる方が「必要な仕事をしている」ように感じられて、心が落ち着いてしまっていたのかもしれません。

父は父で、役職に就いていながら身動きのとれない自分に歯痒さがあったのでしょう。突然「俺も行く」と言い出し、稲刈りの時と同様、有無を言わさずに、杖をついて軽トラの助手席に乗り込みました。

強風と暗闇のなか、私が慎重に車を動かしていると、父は「もっとスピード出せ」と言い、「いや、危ないから」と返すと「だったら俺が運転する、頼むから運転させてくれ、その方が楽だから」と大声をあげました。父は自力で運転席に移り、軽トラのアクセルを強く踏み込んで堤防に向かいました。

長い夜のなかで、父が見回りに出たのは都合3回ほどだったように思います。見回りを終えて自宅に戻り、カッパを脱ぎ捨て、這うようにしてベッドに着いた父は「ちょっと疲れた」と言って横になりました。たまに声をかけると「痛みがひどくて寝れない」とこぼしていました。

10月13日。台風は北へ向かい、沼津市では台風一過の青空模様となりました。道路の冠水があったため、私は朝から消防団で交通整理に出ていました。幸いにして自宅では大きな被害もなく、台風の前に主要な圃場は収穫を終えていたため、家族みんなが安堵(あるいは疲労困憊)に包まれていました。

家を空けていた3日間のこと

10月14日から16日までの3日間、私は会社の泊りの研修で神奈川に出かけました。休職中とはいえ、前々から予定されていたこともあり、3日間、家を離れることとなりました。研修自体は滞りなく進みましたが、全国から参加者が集まるなかで、台風の影響で来られなくなった方も大勢いたことを覚えています。

初日の夜、母から連絡があり、父の体調がすぐれず再度入院したことを聞きました。レセプションの席で初対面の人と飲む気にはあまりなれず、それでも、久しぶりに家から離れた開放感もあって、気晴らしに外に出て飲み、ホテルに戻ったのは2時過ぎでした。

2日目の夜は、東京に住む友人夫妻と連絡をとり、渋谷の中華料理屋に行きました。たぶんこの時初めて、友人に父の話をしたような気がします。彼らは過度に悲しがることもなく、ただ私の話を聞いてくれて、救われる思いでした。たまたまこの日は私の31歳の誕生日で、31アイスクリームを奢ってもらって、ハロウィンが近づく渋谷の街を、ぶらぶらと歩きました。すばらしい夜でした。こんな風に誰かと遊んだのは、ものすごく遠い昔のように思われました。

それからの1か月のこと

研修最終日は遅い帰宅となり、その翌日の10月17日、病室を訪ねて4日ぶりに父に会いました。終始ベッドに寝ている姿はもうすっかり見慣れてしまいましたが、顔色は青ざめ、見るからに体調を崩している様子。父がおもむろに「ちょっと、足を触ってみてくれないか」と言うので、おそるおそる触れてみると「感覚がしない」とのこと。足の先から腰のあたりまで、つまりは下半身がまるごと動かないというのです。がんが神経に干渉して、下半身不随になったというわけです。直接的なきっかけは定かではありませんし、遅かれ早かれ陥っていたことだったかもしれませんが、あの嵐の夜のことを思わずにはいられませんでした。

それまでも、今後の仕事をどうするかという話をしてこなかったわけではありません。ただ、病気と付き合いながら、仕事量をセーブして、私たちが代われる仕事はできるだけ引き継いで、と考えていたところに、父がもうおそらく一生歩けることはないという事実が加わると、殆ど全てのことを考え直す必要が生じました。とはいえすぐには、「作付は減らして、病院代が捻出できるくらいの仕事量にして、車椅子リフト付きの車を買って田んぼの見回りをしよう」そんな話をするのが精一杯でした。

それから1週間を待たず、主治医から呼び出された私と母は、余命1ヶ月の宣告を受けました。あるいは「分かっていたこと」だったのかもしれませんが、当時の私達にはあまりに急な話で、すぐには反応すらできず、すこし遅れて流れた涙は、なかなか止まりませんでした。

突然の動揺が父に隠せるはずもなく、父は私達の表情を見て全てを察知したようでした。翌日改めて、本人にも、もう治療の施しようがない旨の説明がありました。それから1週間ほどをかけて、台風で転びきった圃場を何か所も刈り取りし、最終的には私一人のオペレーションで、夜7時までかかってシーズン最後の稲刈りを終えました。

11月に入ってからは、母は殆ど病院に泊りこみ、私は日中は娘の世話や機械の片付けをしながら、空いた時間でできるだけ病院で父と過ごす時間を作るようにしました。とはいえ当人もこの頃には相当衰弱していたため、病室でずっと会話をすることも難しく、毎日少しずつ、今後の仕事の相談を進めていたような形です。私は専業で引き継ぐことはせず、会社勤めをしながら、母と農業をすることに決めました。それまでの栽培規模や受託作業を大幅に減らし、年間数千枚を請け負っていた育苗生産の大部分も別の業者に引き継ぐ算段を立てました。

長年父と仕事をしてきた母と共同とはいえ、殆ど素人に毛が生えた程度の状態で、会社勤めをしながら約5haの栽培を行うことについては、相当な苦労が予想されましたが、やらないという選択肢は自分のなかにはありませんでした。実作業をしながら父の指導を受けることはもはや叶わないので、具体的な仕事の段取りについてはあまり話はしませんでした。「最初のうちはものすごく苦労するだろうけど、苦労しながらやっていればなんとかなる」「わかった」といった具合です。「自分でやらなければ覚えない」は、父の口癖のようなものでした。

既に投資してある費用を回収しなければならないという問題もありました。水稲栽培というのは設備投資に膨大な費用がかかるのですが、この年の5月にはトラクターを新調していました。まだがんの話など1ミリも出ていなかった2月、滋賀まで展示会に行った父は、キャビン型60馬力の新車購入を決め、結局自分で乗ったのはこのシーズンの春作業のみとなりました。

稲刈り後の耕起作業をするにあたって、ローンのバチバチに残っている新車を、父が生きているうちに一度乗っておかなければならないと思いながらも、乗るぞと決めてから2~3日は、分厚い取扱説明書を眺めてみては(マジで何書いてあるかさっぱり分からんかった…)、車庫から数メートル動かして、また車庫に戻すという無為な時間を過ごしました。

見かねた妻が伯父に頼んでくれて、伯父の指導を受けて、初めて一からトラクターに乗りました(それまでも圃場作業をしたことはありましたが、父が運搬・設定その他諸々の段取りを組んだ上で、圃場内で動かしていたにすぎません)。病室で父に報告すると、それっぽっちの面積にどれだけ時間かけてるんだというようなことを言われましたが、それでも来シーズンに向けての仕事がほんの少しだけ動き出した実感がありました。

別れのこと

11月16日は父の60歳の誕生日でした。その日は父の2人の姉がケーキを用意してくれて、病室で還暦のお祝いをしてくれました。母、祖父母と伯母の5人で父を囲みながら撮った写真の中で、父は今にも泣き出しそうな、はにかんだ表情を見せていました。

父は、もう一度でいいからと自宅に戻ることを切望していました。ベッドに仰向けの状態で寝返りもままならず、管の繋がった状態でしたが、なんとかこの日ということで病院の許可を得ることができました。外出に向けて自宅に車椅子用のスロープを確保し、看護対応可の介護タクシーを予約してその日を待ちました。父自身も、調子のいい日は車椅子に乗ってフロアを移動するなど、リハビリに取り組んでいました。

当日の朝、自宅で伯母たちと到着を待っていると、介護タクシーのスタッフから電話がありました。どうやら外出するのに起き上がったところで容体が急変し、とても出発できる様子ではないとのことでした。急いで病院に向かったところ、父は人工呼吸器を装着していました。母曰く、出発の1時間前までは軽口を叩いて調子良さそうにしていたものの、車椅子に移る際に急に呼吸がおかしくなったとのことでした。

もういつ何があってもおかしくないということで、私たちは母に合流して病院に泊まることにし(私は娘もいるので夜は帰りました)、何人もの方がお見舞いに来てくれました。喋ることもできず、目の焦点も合っていませんでしたが、誰が来たのかは認識していたような気がします。

11月22日頃には、既に父は殆ど目を開けず、機械に繋がれた状態で眠るように過ごしていました。翌日、いわゆる勤労感謝の日の午後8時頃、父は60歳と1週間を生きて、病室で息を引き取りました。

そこからは息つく暇なく葬儀に流れ込むこととなり、周りの方が力になってくれて、大きなトラブルもなく父を弔うことができました。遺影には、8月に撮ったお宮参りの写真を使いました。「寂しい葬式はいやだな」と言っていた父でしたが、ありがたいことに500人を超える方が弔問に来てくださいました。語弊はあるかもしれませんが、あと半年経っていたらこんな葬儀はあげられなかったでしょうし、病室での面会も難しくなっていたかもしれません。

一連の葬儀のなかで、父について初めて知ったこともたくさんありました。父の果たした仕事の一つに、2017年に皇室に新米を献上し、その圃場で収穫したお米が、地元JAから地元の名前を冠した特別商品『天下大平』として販売されたことがあります。それ以外にも、20代の頃に農機具の改良案で県知事賞を受賞したり、静岡県東部で初めて農薬散布用無人ヘリのオペレーター資格を取得したり(趣味のラジコンヘリにも没入していた)、とにかく新しいものが好きで、チャレンジ精神をもって農業に打ち込んでいた父の姿を、多くの方から話に聞くことができました。

父の言葉で印象に残っているものを挙げるなら、一つは「一般の家庭の食を支えるものを作り続けてこそ意味がある」もう一つは「自分のことを棚に上げなければ子育てなんてできない、じゃなきゃ人類は今も岩穴に暮らしてる」でしょうか。特に後者は、決してバランスのとれた人格者ではなかった(なかったよね、それは間違いなく)ものの、どこか人を惹きつける魅力のあった父特有の生き方を表明しているようで、今も私の心の支えになっているところがあります。

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(2017年10月 皇居にて撮影)

2020年のこと

2020年に入り、私は正式に父の事業を縮小して引き継ぎ、自分名義での水稲栽培をスタートさせました。規模から考えれば十分すぎる設備を父は残してくれていたので、当面の資金繰りに大きく苦労することはなかったものの、とにかく最初は機械の扱いに苦労しっぱなしでした。就農間もなく、積載3トンのトラックにトラクターを乗せた状態で、田んぼ沿いの道で脱輪したときはマジで死んだ(経済的に)かと思いましたが、近所の先輩農家の方が何人も来てレスキューしてくれて事なきを得ました。他にも、具体例をいくつか挙げると

・作業場の電気系統が謎(業者に頼んで全部洗いだして再整備しました)

・播種機の設定調整が謎(経年劣化による細かい部品の歪み等を、父が手動調整で合わせていたのでブラックボックス化している)

・トラクターのアタッチメントの脱着ができない(最初はそんなレベルでしたよ、マジで)

・トラクターの後ろにつける施肥機(ソワー)の配線が分からない

・トラクターの後ろにつける畦塗り機の使い方が(以下略)

・コンバインの後ろについてる結束機の使い方が(以下略)

・代かきのやり方が全く分からない(近隣で20ha以上を手がける先輩生産者が、マンツーマンで乗りながら指導してくれました)

等の苦労がありました。稲の生育管理については、母が蓄積をもっていたので、機械の扱いに比べれば地獄ではありませんでしたが

・肥料のNPKからしてよく分からない

・ヒエの「〇葉期」なのか見ても分からないし、ここに生えている雑草は何で、何の除草剤が効果的なのか分からない

・分げつ、出穂などの仕組み、生育スケジュールがいまいち分からない

・圃場ごとの湛水の仕方(のクセ)が分からない(こればかりは日々通って観察しながらやるしかない)

等の課題を抱えての1年目となりました。早い話、農学の基礎的教養が圧倒的に不足していたというわけです。お世話になっている農薬業者の方が「教科書」をくださるなど、勉強しながら、現場でトライアンドエラーを繰り返しました。

失敗談を挙げればキリがありませんが、とにかく1年目はシーズンを通してひたすら出たとこ勝負。初めての作業は先輩農家についてもらったり、整備業者を呼んで教えてもらったり、或いは「父がなんかこんなこと言っていたな…」という記憶の断片を辿ったり。周りの方のサポートのおかげでなんとか乗り切ることができました。初めて自分で一から育てた新米を食べた感想は、感慨深さもありましたが「おいしいけど、父の作った米の方がおいしかったな」でした。それでも、1年目から地元JAのプレミアムブランド米『するがの極』の品質基準を全登録圃場で達成できたことは、いち生産者としての一つの自信に繋がりました。

2021年の今思うこと

1年目の苦労は、やはり苦労したなりに自分の技術を成長させてくれたところがあります。というか、殆ど何もないところからでも5ha作付してれば、下手でも少しは上達するというものです。母も父が亡くなってから、50代後半にしてトラクターとユンボの運転を覚えました。

精神的には、2019年の「娘が生まれたばかりで、父のがんが判明」してからの約5ヶ月が人生最大の地獄の日々だったので、それに比べれば大体のことはなんとかなるだろうという、開き直りに近いモチベーションを保てていることも幸いしているかもしれません。2021年の収穫シーズンを迎えて強く感じるのは「米作りって面白い」ということです。そう感じられる余裕が、少しずつできてきたのだと思っています。

身勝手な孤独感について

今はYoutubeやTwitterなどで全国の様々な農家の方が、日々発信をされている時代です。ともすれば非常にクローズドな世界に陥りがちなこの業界において、先進的な取り組みをされている生産者の言葉や、広く深い知見に裏付けられた情報に触れることは、とても勉強になると同時に自分を刺激してくれます。その一方で、不本意ながら共感できないこともたまにあります。なかでも個人的に読んでいて辛くなってしまうのは、いわゆる「親元就農者の、親世代との摩擦」に関する話です。

私の中には、新規就農でも親元就農でもない自分という感覚があります。客観的には親元就農といえるのでしょうし、事実、設備機材の殆どは、先代から受け継いだものを使っている(使わざるをえない)のですが、引き継ぎ資料もほぼ存在せず、父が培ってきた栽培技術の殆どはブラックボックス、或いはロストテクノロジー化しています。意図しない形で「農家の後継ぎ問題」を突破してしまったことで、「自由にやれるようになった」部分も勿論ありますが、経営方針について父とぶつかる「機会」を得られなかったというのもまた正直な思いです。

自分がとりたてて不幸だなんて全く思いませんが、親との軋轢について不満をこぼしている生産者の話を聞くと、悲しくなってしまうことがあるのは事実です。私が右も左も分からない頃に親身になって農作業の指導をしてくれた方は、やはり今の私と同じ年の頃に、あるいはもっと若くして、親の急病で、突然経営者になることを余儀なくされた過去を持っています。

20代の数年間のなかで、父の仕事を手伝いながら何百回と怒られてきましたが、一人で農作業をしていると、いまだにあの怒鳴り声をどこかで求めてしまう自分がいます。母もきっとそうなのだろうと思います。小さなトラブルが起こるたび、よくスタッフと「親父だったら絶対めっちゃ怒りますよね」なんて大笑いしています。気が短く、滅多に人を褒めない父でしたが、亡くなる直前の時期は、驚くほど優しい言葉が増えました。

私はきっと、寂しいのだろうと思います。

SNSでフォローさせてもらっている方に、ほぼ一人で水稲栽培をされている同世代の方がいます。直接お話したわけではないので詳しくは分かりませんが、その方も、農業をされていた親御さんが亡くなって、ご自身が引き継ぐことになった事情がそれとなく伺えます。お会いしたこともないなかでこんなことを申し上げるのは気がひけるのですが、正直、他人に思えないんですよね。勝手ながら、その方の苦労されている気持ちが痛いほど分かる(気がする)し、応援したいし、一緒にがんばりましょう、って思っています。

最近聴いたPodcastで「農家のセガレ」をテーマにした回があり、とても興味深く聴きました。https://open.spotify.com/episode/6tL0NODrK4wBMWA4Fnokri?si=0iYnn5t2TuOmnSm8b3vyQQ&nd=1

「親世代とのすれ違いで苦労しているセガレあるあるw」だったら嫌だな、と思いながら聴いていると、(そういう愚痴話もありましたが)途中から「セガレ側も甘えてしまっている部分があるよね」という話の展開になり、すっと心がほぐれてくる感覚がありました。きっとみんな、それぞれの抱えている世界で悩んでいるのだと思います。

番組の終盤で紹介されていた「親父の攻略法」の一つに「仕事中は敬語で接する」というものがありましたが、私もある時期から、父には敬語で話すように変えたことを思い出しました。私の場合は、接し方を変えるのが面倒なので基本的にいつも「ですます」調で接するというやり方ですが(関連の話でいえば、場によって自分を切り替えるのが好きではないので、18歳のときから一人称をおおむね「私」で統一することにしています)。

父が亡くなり、母と仕事をするようになってからは、母に対して「(名前)さん」と呼ぶことが圧倒的に増えました。「家族」と仕事をするというのは、なかなか難儀なものです。

おわりに

この死ぬほど長い話にお付き合いいただき、心からお礼を申し上げます。

直前の項で「私はきっと、寂しいのだろう」と書きました。この寂しさはとても身勝手なもので、だからこそ手放してはいけないような気がしています。でもいつか、ふっと手放せることがあればいいな、と思っています。

そもそも、父と同じ土俵で戦おうとは思っていないので、あまりそういうモチベーションはないと前置いた上で。もし、自分の作ったお米が、父のものよりおいしいと確信を持って感じる日が来るのなら、或いはそれはとても寂しい瞬間なのかもしれません。でもきっと、これ父が聞いたら「ぶん殴るぞ」って言われるんだろうな。農業の業はギョウじゃなくて「業」です、ってやかましいわ。

台風はいつか去ります。また出くわすこともあるかもしれないけれど。未来に向かって頑張りましょう。

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