見出し画像

住まいや仕事が変わっても結婚しても通い続けたお店が閉店した

家がただ帰って寝るためだけにあった頃。駅からの距離だけを重視して内見もせずに決めた都立大学の賃貸。その斜め向かい、目と鼻の先にあった飲み屋は、私の「行きつけ」だった。

体力と愛嬌を武器にがむしゃらに働いた20代が終わり、自分の未来を考えて決意した2度目の転職を機に都立大学から離れてなお、私はその店に通い、さらにまた結婚を機に引っ越してからも通い続けた。

通い始めて何年経ったのだろうか。
4月16日、その店「渡辺商店」が閉店した。

遭遇

はじめて訪れたのがどの日だったか、あまり憶えていない。前に行ったときにはうどん屋だったのにいつの間に飲み屋になっていたんだろうと、不思議に思った記憶だけ残っている。

一人で飲みに行ったときかもしれないし、近所のバーのマスターに連れて行ってもらったときかもしれない。隣の部屋の飲み仲間と連れ立って行ったときかもしれない。どれが最初だかはわからない。

一番鮮明なのは隣の部屋の飲み仲間と一緒に行ったときのことだ。春になりきれずまだ寒い夜、近所だからと新しい真っ白のスプリングコートを羽織って小走りで向かった。店に入ってすぐ、隣の部屋の飲み仲間が「おお、ユウイチじゃん」と言った。そこにはこの時には見知らぬ、私の将来の夫がいた。隣の部屋の飲み仲間を媒介に3人で飲んだ。

いつの日かのおばんざい

探索

それから渡辺商店には3人で行ったり、2人で行ったり、1人で行ったりした。マスターのナオトさんはいつでも「みずきちゃん、いらっしゃーい」と迎えてくれた。近所の人々で賑わう店内。外から満席を知り、諦めた日もたくさんある。

都立大学を離れてからも、よく通った。引っ越した先は戸越銀座や武蔵小山、五反田など、外食先に困らない魅力的なスポットに囲まれた場所。あの店のような飲み屋がこの街にもあるといいねと、将来の夫と話しながら探索をした。そして、お気に入りの店にたくさん出会った。

ある店は大きなどんぶりに入った締めの雑炊が絶品だった。美味しいと伝えると「うまいだろ!」と自信満々に答えてくれた。

ある店は優しい味の和食が並ぶ中に「なすニンニク」というメニューがあり、ガツンとした味がたまらなかった。美味しいと伝えるとレシピの由来を教えてくれた。

魅力的な店、人、料理。
それでも、渡辺商店は見つからなかった。

最後にいただいた筍ごはん

ナオトさんは「美味しいよねぇ」と言う。お酒を、おつまみをいただいて、美味しい!と伝えると他人事のように言う。自分が仕入れているのに、調理しているのに、まるで自分は関係ないかのように共感をあらわす。

自分以外のものに全幅の信頼を寄せているように聞こえて、なんだかクスリと笑えてしまう。そんな人柄に惹かれるのだろう。

正月

結局どこへ引っ越しても都立大学へ通う日々。(無事夫となった)夫と私は休みが合わず、夜の予定も合いづらいけれど、隙を見ては渡辺商店へ向かった。相変わらずナオトさんは「みずきちゃん、いらっしゃーい」と迎えてくれる。

渡辺商店に行くと夫は「正月が来た」と言う。我が家のような居心地の良さと、美味しいお酒とおつまみで愉快にすらなる「めでたさ」の共存。それに、ナオトさんをはじめ、ここで出会った人たちとの再会があるからかもしれない。

2年前の1月2日、めでたいメニュー

閉店の一週間ほど前に行くことができて、私たちはいつもどおりそれぞれの好みのカップ酒を選んでもらった。変わらず通常営業なナオトさんだったけど、客席ではみんな閉店することへの寂しさが表情から口から漏れ出ていた。

なぜ閉店するのか教えてくれた。それは応援するしかない理由だった。だから辞めないでなんて言えないけど、あの場所がなくなってしまったことはやっぱり寂しい。

住まいも仕事も何度か変わり、一緒に暮らす人ができた。その移り変わりにずっと存在してくれたお店。

またいつかナオトさんのお店ができたら、どんなに遠くても私たちは通うんだろう。そして、また「美味しいよねぇ」の声を聞くんだ。

選んでもらったカップ酒

この記事が参加している募集

私のイチオシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?