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仕事モードをオフにするための女ひとり酒|82ALE HOUSE 品川店

予定通りのスケジュールで勉強会が終わった。スマホの時計は18時半を示している。終了の合図とともにできあがった講師の前の長い列を横目で見て、私はため息をついた。首から名刺の入った名札を下げた主催者たちの前を俯きながら通り過ぎ、100人の体温が籠った会場を出た。

この勉強会が終わったらひとりで飲みに行く。そう決めていたから、歩みに迷いはない。目指すは会場と品川駅の間にある82ALE。HUB系列の英国風パブだ。

勉強会は神経をすり減らす。狭い業界なので知り合いがいれば挨拶をし、名刺交換を求められればそれに応じる。情報にも人にも敏感に反応するために、心をケバケバにしてキャッチしやすくする。感覚が鋭くなる。

帰りにひとりでお酒を飲もうと決めていたのは、心のケバケバを撫でつけてから帰りたかったから。自分の中にあるビジネス用のスイッチはワンタッチでオフにできるものではなく、ボリュームのつまみのように徐々に目盛りを下げていく必要があった。お酒を飲みながら少しずつ。そしてケバケバは寝かしつけられる。

店の入口の扉にはガラスがはめ込まれていて、外から店内を覗き見ることができた。まだ早い時間だからかほとんどが空席だ。扉を開いて店内に足を踏み入れた。

外から様子がわからずに入ってみると満席で、気まずい思いをすることも多い。「ひとりです」と店員に伝えながら先客たちから視線を浴びるのはあまり心地の良いものではない。その視線に悪意はないとわかっていても。だから、店に入る前に中の混み具合を知ることができるのはひとり酒の身にはありがたいことだ。

レジに近いカウンター席でコートを脱いで店員の元へ向かう。冷え切った身体ではビールを飲む気にはならず、メーカーズクラフトのハイボールを注文した。ハイボールだって身体を冷やすのかもしれない。ビールだけに罪を着せたようで申し訳ないが、仕方のないことだ。

この店はキャッシュオン。その場でハイボール一杯分のお金を渡し、席に戻った。

グラスを口に運ぶとき顔は自然と上を向く。ひとくち、ふたくちと飲み進めるほど心が撫でつけられるよう。人と飲むお酒は会話を潤滑にし距離を縮めるが、ひとりで飲むお酒は自分を緩めてくれる。

以前この店に来た時のことを思い出す。一年前、会社の懇親会で貸し切りをしたのだ。移動も困難なほどぎゅうぎゅうに詰め込まれ、グラスを片手におしゃべりに興じた。賑やかなお酒とひとりのお酒。同じ店なのに感覚が違って、ふわりと心が浮かんだような気分になる。

晩ご飯は家で食べるとして、一品だけお酒のお伴を頼もうとメニューを眺めた。ポテトサラダの上に載った燻製たまごを見て心が躍る。ただ、隣に並んだ「ハギス」の文字も気になる。何やらスコットランドの伝統料理らしい。スコッチウイスキーによく合うという言葉に惹かれるが、今飲んでいるのはバーボンだ。ハギスはまた今度ということにした。

飲み屋にしては薄味で健康的なポテトサラダとハイボールで、徐々に心のケバケバを落ち着かせていく。常連らしき隣の客は、ウイスキーの飲み比べセットをテーブルに並べてものおもいにふける。奥のテーブル席ではスーツ姿の男性が四人、仕事の話をしていた。打ち上げだろうか。晴れやかな表情をしている。

さらには仕事の打ち合わせに利用している客もいた。それぞれが仕事で疲れた身体や仕事のことでいっぱいになった脳を抱えて同じ空間でそれぞれのお酒を楽しんでいる。

二杯目に頼んだフルーツカクテルが空になったところで店を出て、品川駅に向かった。帰宅ラッシュを過ぎた車内は座れはしないが空いていた。ここで混雑した電車に乗ってしまってはまた心が毛羽立ってしまう。つり革に掴まって心を撫でつけながら、窓の外を見た。悪くない一日の終わりだと思う。

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