見出し画像

駅舎にて(ショート・ショート)

会社から1週間の有給休暇をもらって、一人きりで北へと旅に出た。失恋を癒やすための、人生初めての一人旅だ。

紅葉の季節も終わり、観光客もほとんどいない。
カバンに詰めこんだ真っ暗な気持ちは、この旅ですべて捨て去るつもりだった。そのためには寂しい季節と寂しい場所を選んだほうがいいと思い、この時期の東北地方を選んだのだ。

寂しさにどっぷりと浸り、すべてを放り投げる。
空っぽになったカバンには明るい未来を詰めて帰りたかった。

そして今、僕は列車を待つため、小さな田舎の駅舎のベンチで、たった一人腰を下ろしていた。

古い木造の駅舎は、年月の重さにじっと耐えながら建ち続けている。町はどんよりとした重い雲に包まれている。木々を揺らす風がガラス戸のすき間から悲しげな高い声をあげて、忍びこんでくる。息を吐き出すたびに、白い息が冷たい空気に溶けていく。そのためか、駅舎の中まで重々しく感じられる。

後は家に帰るだけなのだが、暗い気持ちは消えずにまだ残っていた。僕はどうしてこんなところに一人で座っているのだろうか。まるで置き忘れたコートのような気分だ。彼女を忘れるための旅だったのに、隣に彼女がいてくれればいいのに、と思ってしまう僕がいた。彼女さえいればこれほど心の中まで寒くならないで済んだだろうに。

小さな女の子を連れた若い女性が駅舎に入ってきた。開かれたガラス戸から落ち葉と一緒に北風が吹きこんだ。空っぽになった僕の胸の中を、北風は何の遠慮もなく通り過ぎた。しかし、不思議と寒さは感じなかった。きっと心の中の寒さのほうが北風よりも冷たいからだろう。

僕は二人の新参者をぼんやりと見やった。
三十代前半くらいの優しい笑顔がよく似合う女性と、4、5歳くらいの女の子だった。たぶん親子に違いない。娘は手にしたお人形でひとりおままごとに熱中している。それを見つめる母親の暖かい笑顔に耐えきれず、僕は視線をそらした。

時計を見ると、列車の到着までまだ20分以上ある。仕方なしに、掲示板に貼ってあるポスターの文字に気持ちを集中させた。

突然、母親が僕に話しかけた。
「すみませんが、トイレに行くあいだ、娘を見ていただけないでしょうか?」
「構いませんよ」
僕は狼狽を隠すように小さな声で答えた。

「さやか、ちゃんとこのお兄さんのそばにいるのよ」
「はーい、ママ」
女の子が母親にも負けない笑顔で言った。

「それじゃすみませんが、よろしくお願いします」そう言うと、母親は外へと足早に出ていった。

気まずい気配を紛らわすために、僕は女の子に話しかけた。
「ママとお出かけなの?」
女の子は僕の前に立つと、さっきまでとは打って変わった真剣な目つきで僕を見た。
「ママはもう戻ってこないの」
「えっ、どうして?」
僕は驚いて聞いた。
「だって、ママは私のことを捨てたから」
意味もわからず呆然としている僕に、女の子は追い打ちをかけるように言った。
「新しいパパが、ママにさやかを捨ててきなさいって命令したの。ママは最初は嫌がってたけど、でも仕方ないの。パパがママを叩くから」
女の子はもう僕を見つめていなかった。うつむき加減に話すしぐさは、まるで手にした人形に言い聞かせているかに見えた。

「新しいパパはさやかのことが大嫌いなの。ママ、いつも叩かれて泣いているの。ママがかわいそうだから、私は捨てられてもいいの」
あんな幸せそうに見えた母娘がこんな不幸を背負っていたとは想像もできなかった。

「ちょっと待っててね。ママを探してくるから」
慌てて外へ出ようとする僕の腕時計に、女の子がしがみついた。
「行っちゃダメ」
「でも」
戸惑う僕を見つめる女の子の瞳に涙がにじんでいた。
昨今テレビでよく見る子どもの虐待のニュースを思い浮かべた。自分のお腹を痛めて産んだ子どもを殺してしまう母親の気持ちは到底理解しがたいものだった。しかし、子どもを捨て去ることだってヒドいことには変わらない。一人で生きていくすべも知らないこんな幼い子どもを置いていくのは、あまりにも酷いことだ。母親の幸せは女の幸せよりも軽くなったということなのだろうか。

残された女の子を放っておくわけにはいかない。僕は女の子の手を取って、駅員室へ行こうとしたとき、
「あ、ママが戻ってきた」
女の子が僕の手を振りほどき、走り出した。
振り返ると、母親が戸口に立って、女の子の髪を撫ぜていた。僕は肩の力が抜けて、ベンチに座りこんだ。どうやら母親は女の子を捨てることができなかったようだ。

母親が僕の前に来て軽く会釈すると、僕に熱い缶コーヒーを差し出した。
「ありがとうございました。寒いでしょうから、これをどうぞ」
母親は笑顔で僕に言うと、今度は足元に立っている娘に言った。

「もうすぐパパが乗っている電車が着くから、良い子にして待っててね」
「うん」
女の子は駅舎に入ってきたときと同じ笑顔を僕に向けた。

理由もわからずにいる僕の元へ女の子が駆けてきた。そして僕の耳元に口を当てて、小さな声でつぶやいた。
「お兄ちゃんが嫌なことがあったみたいな暗い顔をしていたから。だから、さやかが嫌なことを忘れさせてあげたの」

母親の元に戻っていく女の子の背中を、僕はあ然として見つめるばかりだった。体全体の血が頭に昇ってしまったように顔が熱くなった。

僕はあんな小さな女の子にからかわれたのだろうか。頭を冷やすために改札口のほうを見やると、いつの間にか駅のホームが太陽の光に照らされていた。重々しかった駅舎内の空気が柔らかくなっていく。日差しの反射でガラス戸に僕の顔が映っていた。僕はあんな幼い娘にもわかってしまうほど暗い顔をしていたのか。考えてみれば、あの女の子と話していた時間、僕は確かに失恋のことを忘れていた。僕は声を出して笑った。不審そうに僕を眺める母親の隣で、娘がVサインで僕に笑いかけた。

大した娘だ。この娘だったら、もしも母親から捨てられても、一人で生きていけるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?