見出し画像

愛おしかった人たちへの歌

 書くのが怖い、そう思いながらも今この手がキーボードを打っている。書くのが怖いのは、書けることを知っているからだ。私が私の内面を見ることが恐ろしい。これが、あなたに「伝わってしまう」ことが恐ろしい。言語による100%の伝達なんてほとんど信じられていないだろう、私だってそう思う。けれど、それでも。言葉は時にその余白を保ったまま、誤読の可能性を携えたままに、あまりにも多くのものを運んでしまう。伝えてしまう。そういうものだ。

 今が幸せか、と聞かれたら、それはもう本当に、この上ないほどだと答える。日々の小さなことが私を微笑ませてくれる。それくらいの心の余裕がある。その土台に金銭的な余裕がある。私は両親に感謝してもしきれない。祖父母にも。

 シャツにアイロンをかけている。その生活音のなんと穏やかなことだろう。あの国では今も銃撃が、虐殺がなされていて。グローバル化したとかなんとかで「繋がっている」はずのこの国で、私は微笑むことができている。無責任な、遠さ。

 無責任だ、と彼女がいった。責任を取って、といった。責任なんか初めからなくって、もしあれば、それは君が背負うべきものだ、とは言えなかった。彼女の心はあまりにも未熟で、私が思っていた以上にずっと子供で、彼女は、彼女の悲痛な叫びは、親に捨てられた子供のようだった。愛してるって言ってたのにどうして、と言われた気がした。私も哀しくなった。ねえ。わたしは、君と、友達で居たかったよ。

 置いていかないで、もっとずっとそばにいてほしい、と彼がいう。私はばさり、と切り捨てる。もう終わったからね。約束だからね、と。嫌だったわけじゃない、むしろ幸せだった。幸せを引き伸ばすことはいくらでもできたはずで、でもそこに常に入り込んでいた「誤魔化し」を私はもう許容したくなかった。君の唯一の甘えの対象になりたくなかった。卒業したかった。もうおわりね。ずっと終わり。もう次はないのよ。

 それでも、いや、それでもというか、とても当たり前のことなんだけれど、わたしには、わたしを愛してくれる人たちがいる。尊重してくれる人たちがいる。そんなことはわかっていた。私が私を大事にするということをもう随分前から覚えていたから。「救いたい」なんて気持ちを持つことが罪だとは言わないけれど、この先の人生で、そのことを大切にしなくていいと思った。わたしを救ってくれたのは漫画やアニメだったから、そういうふうに間接的に人を救いたかった。それなのに、とても密接になってしまって、人とのかかわりに、私自身が疲弊してしまった。自分ができることの範囲を見間違えていたのかもしれない。自惚れていたのかもしれない。

( 幸せとはなんだろう? )

 生活の全てに、世界が日々作り出す景色の全てに、君の顔に微笑むことができるこれこそが幸せだというのなら、今ここで死んでしまいたい、とはもう思わないよ。いつかこれも終わるんだってことに怯えながら、今を愛することしかできない。変わっても構わないから、ずっとそばに居させておくれよ。誰に、というわけでもなくわたしはわたしと話す。変わっても構わない、恐れないでと無理は言わない。ただ受け入れるだけの勇気を。終わりを作る始まりを持つ気概を持っていたい。

 愛していたよ、と一人きりの部屋で告げた。確かに愛していた。そして幸せだった。でも。それとこれとは別なのよ、わたしはこれからまた、「わたし」を歩まなきゃいけないの。君たちもそうしてね。薄情だって思ってもらっていいのよ。お別れね。


サポートまで……ありがとうございます。大事に使わせていただきます。