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あなたの言葉が魔法になって

それは、幼い頃から私の中にあった。不安とか劣等感を知らなかった3歳のわたしは、従姉妹のお姉ちゃんに「自分のこと可愛いって思う?」って聞かれて、正直なんとも思っていないというかそんなこと考えたことがなかったから、どっちでもいいなと思って、とりあえず期待されていそうなほうを答えようって、「うん」って返した、そうなんだ、って言われて、少しバカにされた気分になったのを覚えてる。

人生で初めて、自分の体に嫌悪感を持った瞬間のことをよく覚えてる。それは幼稚園のとき。体育座りをして先生の話を聞いていたら、ふと手のひらに当たった自分の太もも。掴んでみたら、「うわ、太い」って思った。なんとなく、いや絶対、みんなより太くて、これって良くないんだ、って感じた。

小学校4年生にもなると、それははっきりと「自分は醜い」という認識になった。容姿のことでいじめられていたわけでも、いじられていたわけでもない。ブスとかキモいとか、ましてや醜いと言われたこともない。

ただ、大人になって思うのは、可愛くて綺麗なわたしの自慢のお母さんは、わたしを「可愛い」と褒めそやしたことが、多分一度もなかったということ。名前にはお姫様の「姫」の字を与えられたのに、あてがわれたのはいつも男の子の服だった。

いつか、棺桶の中に入る時。死に顔はうつくしいものであってほしいから、年を重ねてうつくしくならないといけないんじゃないか。

小学生のわたしは、自分はうつくしくなれるという自信も実感ももてないまま、ぼんやりと、そう考えていた。

年を重ねて、わたしは、自分の容姿にたいして肯定的になる術を覚えた。

高校生にもなったころだったか、母が言っていた「大人になるにつれて痩せて可愛くなるよ」というのは、彼女の経験則からきたあまり当てにならない言葉であって、容姿というのは自らの努力で良くするもの、もっといえば「認める」ものなのだと気がついたからだ。

卑屈だった自分自身を変えたくて、わたしは可愛くなることを決めた。自己暗示の効果というのはおおきい。時間をかけて、少しずつではあるものの、自分で自分のことを「いいな」と思えるようになってきた。この頃の地道な努力の結果を成長と呼びたい。お陰で今は、不必要なコンプレックスを抱えることなく、健やかな気持ちで過ごせる。

でも、根深いそのコンプレックスが、すっかりなくなったわけではなく、怖くなることがあった。ふとした瞬間に、わたしはだめだ、美しくないんだと、不安に襲われることがあった。

それで一度、デートの時に写真を撮ってもらうのが憂鬱になったことがある。恋人にLINEで「カメラを向けられると怖くて硬い顔をしてしまう、そんな自分がいやだ」と告白したときの、彼の言動、それをずっと覚えておきたい。

彼はいくつかの写真をくれた。最近のものもあれば、いつ撮ったんだっけ、というものもあった。

「君はいつでも綺麗だよ」って、今の時代ドラマでもなかなか出てこなさそうなセリフをさらりと言った。わたしは泣いたよ。送られてきた写真に映っているのは紛れもない自分の姿なのに、まるで自分ではないような錯覚を覚えたから。その写真が綺麗だったから。

大人になっても心の奥底から消えずにいた「醜い自分」の像は、その日を境に、少しずつ姿を消していった。

もしかしたら、あなたが魔法をかけてくれたのかもしれない。

自分だけでは取り除けなかった、最後の最後のコンプレックス、こころのわだかまりは、いつしかなくなっていた。写真を撮られるのはまだ慣れないけど、前みたいに憂鬱じゃない。

本当は、容姿なんて問題じゃないって、頭ではわかってる。でも、だからこそ、フラットに自分を愛せるようになりたかった。それができるようになったのは、紛れもない、あなたのおかげだと思うんだ。

「たすけてくれて、ありがとう。」

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