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セルゲイ・ロズニツァ『アウステルリッツ』を読む

前書き

 こんにちは。96年生まれ、社会人経由で現在大学3年生をやっています、カデカワです。

今回は、1年の時に課題で執筆したセルゲイ・ロズニツァ『アウステルリッツ』の解釈をnoteに転載したいと思います。

以下、本文となります。 

本文

 『アウステルリッツ』は、ウクライナ出身の映画監督セルゲイ・ロズニツァが2016年に発表した映画である。ザクセンハウゼン強制収容所跡地の入り口から始まり、ザクセンハウゼン強制収容所跡地の入り口(つまり出口でもある)で終わるこの作品は、初めから終わりまで、一貫した長回し、定点ショットの位置が切り替わる方法で撮影されている。そのため観客は、映画が一つの収容所敷地内で撮られているものだと考える。実際には、映画の後半で映し出されるクレマトリウム(死体焼却場)はダッハウ強制収容所跡地のものである。ロズニッツァは、おそらく意図的にこの錯覚を引き起こしている。その錯覚は、我々を、画面越しの人々と同じ軌跡で収容所跡地のツアーに参加しているような〈主観〉的感覚を持つ観客にする。

 先に述べたような撮影手法、また編集の少なさから『アウステルリッツ』は観察映画とされる。テロップはなく、映像はモノクロだ。しかし音声だけは、ひときわ注意して編集されている。よく通ったガイドの声は悲惨な事実を伝えるが、作品の始まりから終わりまで我々の耳に入るのはむしろスマホのシャッター音である。ラストに近づいた一場面では、どこかで鳴り続ける大きな着信音が一向に止むことがない。このような音声に、観客の多くは道徳的反感を覚えるだろう。「こんな悲惨な事実があった場所で、死者の大勢出た場所で、酷い態度だ」と憤りを通り越して、呆れを覚えさえするはずだ。しかしどうだろうか。我々も現地に訪れれば、スマホで写真を撮るのではないだろうか。「撮るかもしれないが、それは記録のためであり、一種の勉強のためだ。画面の向こう側に映った『囚人のふり』をして写真を撮り合うような愚かなツアー客にはならない」、そんなふうに言い訳をするかもしれない。けれど不安だ。

我々は本当に「ああはならない」のだろうか?

共に訪れた友人と笑い合い、ロズニッツァがインタビューで「相応しくない格好」と話した、半袖半パン、あるいはワンピースといったラフな格好で、その場を訪れはしないだろうか?

 本作は、観客にツアー客を批判させる(熱心に話すガイドの前で食事をし始めるツアー客を映し出すところなど、そのような意図を感じざるを得ない)が、このような反応はバルトのいうところのストゥディウムに過ぎない。そのような行為は不道徳である、という教育からくる文化的コードでしかない。では、収容所跡地でにこやかに家族写真を撮影する人々、ガイドの説明に耳を傾けない人々を、咎めずにいるべきなのか。そうではないだろう。ストゥディウムが無意味なのではない。プンクトゥムの発見が有意味なのである。作品を鑑賞している間には感じられず、目を閉じて思い返すときにこそ私のもとに現れる、じっとりと湿った梅雨の空気のような連続的な不快感、出所の特定できないそれこそが、私にとってこの作品のプンクトゥムであり、第三の意味である。映像という質量がその不快感の連続を生むことは確かだが、なぜその感覚は観賞後にしか現れないのか。私以外の観客も鑑賞中にツアー客を徹底的に批判することはできなかったはずだ。なぜか。それは観客自身が画面の中のツアー客となり得るからである。過去と現在という決定的な切り分けのなかで、我々はツアー客と同じ〈現在〉に所属してしまっている。〈当時〉の人にはなり得ないことを知っている。そのような恐ろしさ、そしてここに書いていることだけでは言い表せないような快と不快の連続(この映画では、不快さを感じずに鑑賞しうること、少しでも快の状態であれることすら恐ろしいのだ)が、ロズニツァの映した確かな姿、現代の収容所の姿であり、現代に生きる我々自身の姿である。

参考文献

ロラン・バルト著. 花輪光訳『明るい部屋 : 写真についての覚書』.みすず書房, 1998.
ロラン・バルト著. 沢崎浩平訳『第三の意味 : 映像と演劇と音楽と』. みすず書房, 1998.
『セルゲイ・ロズニツァ〈群衆〉ドキュメンタリー3選 国葬|粛清裁判|アウステルリッツ 公式ガイドブック』株式会社サニーフィルム, 2020.


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