「江水散花雪」初日配信感想③~人が己を知る過程(小竜景光・大包平について他)
江水散花雪の感想を懲りずに続けます。千秋楽配信までこのままロスが続くのしんどすぎますので感情を文字化してクールダウンする所存。
さて、ひとつ前の投稿で南泉一文字について考察をあげたので、新人チームの残り二振りについて所感とか考察っぽいものを上げたいと思います。(こちらもfusetterから転記)
ちょっと蛇足ですが、江水、初日の配信は兼さんが登場するまでのあの45分は、なかなか集中できずにしんどかった。なんつうか間延びしてるというか話に入り込めないというか?
でも二日目を現地で観覧した時は、全然そんな事なかったんですよね三振りのやり取りがすごく楽しくて。
あれって、配信の限界と言うか、役者さんの息づかいとかマイクが拾う以外の音とか動作の芝居とか、どうしても零れちゃうものがあるんだなと痛感しました。正直金銭的には配信万々歳なんですが、生で見る感動からはやっぱり落ちますね……。一生好きなだけ観劇して暮らせるお金があれば……(違)
新人三振り、のんきな遠征のはずが超ハードなOJTに放り込まれる(って話だったよね?
あの新人三振りは本当に顕現したてで、私たち審神者が入手したLV1男士を「まずは使えるようになるまで遠征行っとけ」って遠征に送り出してる状態からのOJTだったんじゃないかな……とディレイを何度も見返しながら思いました。
だって、今までの刀ミュで登場した新刀剣男士たちと色々な部分が違い過ぎた。殺陣にしろ行動にしろ。
それが前半のなれ合いパートに対する違和感に繋がってたんじゃないのかなという勝手な解釈でもあります。(もしこの解釈が当たってたら、制作陣は本当に思い切った事やったよなあ……とも思いますが)
* *
江水のあの任務って、本来は気楽で緩い遠征だった。
なのに、偶然にも放棄された世界に繋がる予兆が出来てしまった。で、これ幸いと新人さんたちに「刀剣男士が守るべき歴史とは何か」を学ばせる良い機会だから利用しようと始まった刀剣男士OJTだったんじゃない?
ミュまんばちゃんとミュ審神者の意図が一致して始まった超ハードなOJT。
そう考えると、今までの作品とちょっと違うと感じたあの違和感が薄れるんです。歴史を守るという事への切迫感の無い新人たちへの違和感が。
そんな突発的なOJTだとして。
ミュ審神者も悩みはしたんだろうね、と山姥切国広との会話の雰囲気では感じられました。彼も別に心を痛めていないわけではない。もっと大切なものがあるというだけで。
(……にしてもミュ審神者、パライソの時と言い、匂わせながら古参男士に自発的に重責を引き受けさせるそれ、実は作戦ですか?)
(以下、整理できないまま思いついた事殴り書きしていきます)
・山姥切について少々
・刀剣乱舞の歌について
・大包平について
・小竜について
・ラストの三人が少年漫画みたいで胸熱だったよね。
【ちょっとだけ山姥切国広について】
自分が泥をかぶると言って、ミュ審神者の背中を押した山姥切国広。(しかし実際には、審神者側にもまんばちゃんに対して意図があって自由にやらせた気配がします)
ミュ審神者にとっては、新人教育+まんばちゃんが納得いくまでやりたい事をやらせてあげる、という二重の意図があるんだろうなあ……とあの沈黙で感じました。
人は、他人から与えられた言葉や慰めでは救われないんですよね。
自分が納得いくまで落ち込んで責めたいだけ自分を責めて、苦しみながらもできる行動をしたその果てで、自分で自分を救うしかない。
そういう意味で山姥切の選択を信じて任せるあれも、ミュ審神者なりの愛情なのだと私は解釈しています。
まあ、現実的にもし私が彼の審神者だったら全力でグーパンチしますが(笑) 相手を信じて任せる事と、自分が伝えたい気持ちを伝えない事は別だからね。そういう意味で直球でぶつかってくれる大包平の存在は、確かに光なんですよね……。
そして一方で、ミュ時間軸はそうやって無理なOJTを新人に施さなければいけないほど、状況が悪いのかもしれないな?と。(懇切丁寧に歴史を守る事の意味を教え、手取り足取り優しく導いて育ててやってる余裕は無いぞ。ここで何もつかめないならそれまでだ、みたいな)
これはちょっと怖い想像なので当たらないで欲しい。まあ行きつく先が心覚のあの世界なら、どこかで全員傷つかないといけないのかなとは思いますが……でもほっこり愛おしい日々をもっと見たい、なあ……。
【刀剣乱舞(歌)がなぜあのタイミングだったのか】
いつもの公演なら最初の方で入る「刀剣乱舞」が終盤まで一向に歌われなかったのも、新人たちがまだ「刀剣男士」としての自分を確立していなかったからかなあと思ったんですよね。
刀剣男士たる意義も、その先で叶えたい願いも何にも持ってなかった。全然スタートラインにすら立っていなくて、歌う資格が無かったというか。
周りにいるのが同じ気持ちを抱えて、共に戦う仲間だって意識もあまり見えてこなかった。
そんなバラバラの状態から、あの任務を通してそれぞれが自分の中で「歴史を守る事」の意味を考え、同じ本丸の仲間同士だという意識を持てて、そこでようやく「刀剣乱舞」を共に歌えるだけの意識になった。そういう表現だったのかもしれないなあと。
(序盤のばらっばらの状態で刀剣乱舞歌われても、たしかに違う意味で違和感あったかもと思うのです)
それにしても胸熱でした。今までのミュの中でダントツ胸熱の「刀剣乱舞」だった。見返す度に泣く(千穐楽配信まで待てないわ)
今までのミュは「いかに刀剣男士たちが歴史を守るのか」とか「歴史を守る事の意義」、そしてその任務での苦悩や男士が己と向き合う姿を描いていたけど、それ以前の0章ともいえる未熟な男士の姿を見せてくれたという事で、ある意味ファンがそっぽ向く可能性だってあったと思うんですよね。でも敢えてその姿を描いたんだと私的には解釈しています。
*
私は歴史考証とか世界考証とかとは無縁の場所で刀ミュを楽しんでる勢なのですが、刀ミュはそういうギミックを沢山仕込みながらも、結局のところ「人はいかにして生きるのか」を徹底して描いていると思っていて、だからこそ沼に落ちた人間です。
今回の江水で言えば、新人の三振りが「自分とは何者か」という問いと出会うお話だったなと思うし、
同時に
「世の中の正しさに流されず、自分の正しさについて考えろよ」とか、
「過去(歴史)は変えられない。変えられるのは今ここの行動だけ」という刀ミュの根底に流れるメッセージが強烈だったと思っています。
そういうとこ。そういうとこなんですよっ。キャラものとして通り一編の苦悩とかを押し出すんじゃない、人が人としていかに生きるかって姿をキャラを通して描いてくれてる、そこが好きなんです。
大包平と小竜景光、二人もまた自分を知る第一歩を踏んだ。
話を戻して新人三振について。
序盤の三人でじゃれあっている三振りは、自分の内側から湧き出る「守りたい」「刀剣男士でありたい」という衝動は無かったように見えます。
「お母さんが正しいって言うから」
「こうすると褒めてもらえるから」
「それが当たり前だから」
やる状態。小学生男児かそれ以前。
外から与えられた目的が、内的目的と合致していないんです。
南泉は自分が心地よい事にしか興味が無いし
大包平は自分の凄さをいかに周りに認めさせるかばかりだし
小竜は自分の中にある愛着への渇望に気付いていない。
それが、あの任務の長い長い時間の中で他者と過ごして、心の交流を持ちながら感じ考え問い続けたことで、知ったんですよね。
付喪神である自分にも感情があり、望みがあり、心から生まれる痛みと喜びは表裏一体なのだという事を。
それは物語としては派手さが無くて、分かりづらくて、肥前や兼さんまんばちゃんが持っていた物語に隠れてかすんでしまいがちなんだけど。
でも、あの新人三振りもちゃんと自分と向き合う時間を過ごしていて、その物語が本当に素敵だったなと私は思うんです。
南泉については別記事で語ったので、ここでは残りの二振りについて思いつくままを書いておきます。
【大包平】
格好良かった。圧倒的ヒーロー「言わなきゃわからん」と言うあたりホント極める前の兼さんそっくり。あの「許さんぞ山姥切国広」は惚れる。
しかし、序盤の彼はあれです小学生男士が「俺は凄い!」「俺無敵!」状態。けれどその自意識の高さに反して、実際には全然経験値が足りなくて、皆を導く事も出来なくて、そこで彼は「悔しさ」を知った。
だけどね、「悔しさ」を感じるのは「自分が望む姿」があるから。
理想とする己の姿が無ければ、悔しさなんて感じない。その事に大包平はちゃんと向き合って、未熟である自分自身を受け入れて、理想に向かって進もうと決めた。(つい親目線でえらいねえと言いたくなる)
まんばちゃんみたいな陰属性の人間からすると、感情の機微と言うか言葉にならない部分をガン無視されるので、時に傍にいられるのはしんどかったりするんですが(笑)
でもその在り方、進むべき場所にまっすぐ進む強さが同時に救いになったりもする。まあなんだ。
兼さんが言った通りそのままで良い。真っすぐ進め。
【小竜景光】
序盤で口にした「たくさんいる主の一人さ」というセリフを、彼は終幕の正史のシーンで再び口にします。
全く同じ台詞。けれど込められた想いが全く違っていた。
小竜は自分を「執着しない」と評する事で、実は「執着するほど大切なものを作ってしまう事への恐れ」がある事から目を背けている節があって。
それは裏を返すと「愛着関係を築きたい」「愛し愛されたい」という望みを持っている事に他ならなかったりするんですよ。
でも、そこを無意識に回避してるんですよね。
「囚われない自分という自己像」を設定する事によって。
大切な人を作ってしまったら、その人から愛されなかった時に傷ついてしまう。その人と別れた時に傷ついてしまう。
その恐れから無意識に巧妙に目をそらそうとしている。
今回の江水では、その無意識の回避に気付くことまでは行きつかず、「本当は相手を大切に思っていた」自分がいた事に気付いた。沢山いる主の一人一人との間に思い出が、想いが、物語が生まれていた事に気付いた。そんな感じかなと個人的には解釈しています。
例え仮初の縁ですぐに別れてしまう相手だったとしても、その縁が繋がれている瞬間には大切な想いが生まれていたのだと、その刹那を大切にかけがえの無い想いを集めて生きていく事が幸せなのだと、その無常さすらも愛せるようになるのは彼が極になった時なのだろうなって思います。
まずはミュ審神者と本丸に集う仲間たちと、色んなことして楽しもうよ。
言葉にならないものの尊さ
正史の最後、崩れた小竜にすっと南泉が手を差し伸べ、大包平も続いたあのシーンが江水の素晴らしさを凝縮していたと個人的には思っています。
確かに大包平がゲートをこじ開けてからの刀剣乱舞も胸熱だったけど、私の中での一番はやっぱり、ラストの三人が言葉を介さずに寄り添いあう、あそこです。
悲しみが一杯一杯胸の内にはあったはずなのに、南泉は「雪だ…にゃ」しか言わなかった。小竜は「なんて事ないさ……」とうそぶいて、二振りとも笑おうとした。あれがね、江水の神髄だって私は思うんですよ。
「悲しい」なんて一言も口にしなかったのに、お互いに似たような痛みを抱えてるんだって分かり合えていた。あの「言葉にしろ」っていう大包平でさえ、その笑顔が悲しんでないからだなんて決めつけたりしなかった。
あのシーンは本当に尊い。尊い以外の言葉が無い。
人は、悲しい時に悲しいって言えない事がある。むしろ悲しいからこそ平気な顔で笑うしかない事がある。そんな相手には慰めの言葉を言うんじゃなくて、ただ一緒に隣にいるだけで良いんだって、そのメッセージが本当に好き。
そういう関係を築けているミュ本丸の男士たちの在り方が好き。
もう最高でしたありがとうございますごちそうさまです。
そういう難しい(行間を観客に託す)芝居をしてくれた事も本当に私は嬉しくて江水好きって思います。
* *
千穐楽の配信が待ち遠しい。
長田さんの件も残念ですが、私なりに江水の縁起から受け取った事をこうやって書く事が応援かなと思うので、私は私のできることを。
無事千穐楽公演が行われる事を祈っております。
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