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『Whatの問い』への答えは、ツマラナイものが多い

「ALIFE(人工生命)は、なぜその面白さが伝わりにくいのだろう?」
ALIFEに関する質問を受ける度、疑問に思っています(笑)。
そのヒントが、『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』に書いてありました。
それは「『Whatの問い』への答えは、ツマラナイものが多い」のだそうです。なるほど。ということで、ALIFEに置き換えるとどういうことなのか、ちょっと考えてみました。

「Whatの問い」と「Howの問い」

本書によると、哲学者が取り組んできた問いは、次の2つに集約することができます。

  • 「世界はどのように成り立っているのか?」

  • 「私たちはどのように生きるべきなのか?」

前者が「Whatの問い」、後者が「Howの問い」です。

たとえば、「モノは何から成り立っているのか?」は、「Whatの問い」です。この問い対して古代の哲学者が出した答えは「火・水・土・空気という4つの元素」だったりするわけです。

一方、「近代人はどのように生きるべきか?」という問いは「Howの問い」です。この問いに取り組んだニーチェは、「超人」という概念を提唱し「嫉妬を克服し、強くなりたいという本能に忠実に生きるべき」という答えを出します。

「Howの問い」は、現代のわたしたちがどのように生きるべきかを考える際にも参考になる答えです。一方、「Whatの問い」はどうでしょうか。「モノは元素から成り立っている」ということを知っている現代のわたしたちからみると、間違った答えです。ここから学ぶものは無いと思ってしまいます。

この例が示すように「『Whatの問い』への答えは、ツマラナイものが多い」というわけです。

ALIFEの問いも「Whatの問い」

ここで、ALIFEの問いについて考えてみましょう。ALIFEの研究者が取り組んでいる問いはなんでしょう。それは、

生命はどのように成り立っているのか?

まさに「Whatの問い」です。
たとえば、フォン・ノイマンは、「自己複製は何から成り立っているのか?」という問いに取り組みました。そして「マシンとテープである」という答えを出します。
マシンとテープ??? ちょっと簡単に説明します。

マシンとテープとは、設計図を読んで複製をつくり出す「マシン」と、「マシンに読まれる」設計図と「複製されたマシン(子孫)に託される(コピーされる)」設計図という2つの役割で機能する「テープ」によって、自己複製する機構をつくることができるというものです。

設計図を、マシンに読まれ実行される「プログラム」として、また一方では単なる「テープ」として扱うことは、DNAによってたんぱく質が合成される方法と同じなのです。

こうしてみていくと、Whatの問いからも学べることがありそうです。そのためには「自己複製は何から成り立っているのか?」という「Whatの問い」を「自己複製はどうやって成り立っているのか?」という「Howの問い」に変換することが必要ということです。

「Whatの問い」から「Howの問い」に変換し、答えだけでなく、答えに至った方法、プロセス、アプローチを知ろうとすることは、「マシンとテープである」という結果だけを知るのか、「DNAによってたんぱく質が合成される方法と同じ仕組み」を知るのかという違いを生みます。

重要なことは「プロセスからの学び」

そこで、重要になってくるのが、本の中でも述べられている「Whatへの問いの答え=アウトプット」からの学びではなく「プロセスからの学び」になります。どのような思考や技術、そして実験を経て答えにたどり着いたのか、というそのプロセスや問題の立て方に学びがあります。

フォン・ノイマンは、自己複製の問題に取り組む際に「自己複製は機械にも可能か?」という問いを立てました。そして、自己複製する機械を実際につくり出そうとする過程で、どのような条件が必要かという新たな発見につながったのです。フォン・ノイマン以前は、それまで複雑すぎて、あるいは抽象的すぎて人間の手では太刀打ちできないと思われていました。そうした支配的な考え方を鵜呑みにせず、フォン・ノイマンはた生命の領域に「数学的」に切り込もうとする、その知的態度や思考のプロセスは、現代のわたしたちにもとても刺激になります。

ということで、ALIFEの面白さは、アウトプットだけではなく、そのアウトプットを主張するに至った実験のプロセスや問題に向き合う態度やそこからの学びにあります。noteでもそうしたプロセスを追体験できるようなストーリーと共に、迷ったときの行動指針になるようなALIFEのキーコンセプトを紹介していきたいと思います。


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