アイスクリームは腐らない 3

―百合乃(ゆりの)―

 何が忙しいのかもわからないくらいに忙しいと思った。事務所の電話は鳴り続くし、来客も途絶えることがないし、依頼者に送らなければいけない書類も溜まっているし、今日中に申し立てをしなければいけない訴訟用の収入印紙が足りていないので、あとで郵便局まで買いに行かなければならない。印紙くらい、弁護士が裁判所に行くついでに郵便局に寄って買ってきてくれればよいものを、うちの弁護士たちは、そういうのは事務員の仕事でしょと一蹴する。浅見さんが居た時はよかった。送付書面の作成も、電話対応も、訴訟提起の手続も、概ね彼女と平等に二分できていた。上辺の言葉ではなく、「お互い様」で、仕事を分け合うことができたのだ。彼女が「退職する」とボスの弁護士に話をしたのは半年前のことだった。それから急ピッチで後任の求人をかけ、応募者が集まるまでに一ヶ月、すべての候補者の面接が終わるまでに一ヶ月、内定者が勤務を開始するまでに一ヶ月。退職までに残された三ヶ月で浅見さんは新人である後藤さんへの引き継ぎを行ったが、事務所の立ち上げからおよそ五年間、事務所の要といってもいいくらい、事務所内のすべての業務を把握し、黒子として弁護士よりも案件に携わってきた彼女の業務を、法曹業界未経験の後藤さんが三ヶ月で理解できるはずもなかった。二年目の木澤さんもいるし、大丈夫でしょとボス弁は言い、私自身も、まあなんとかなるかなくらいに思っていたが、甘かった。自分たちの知らないところで、浅見さんがどれほどの仕事をしていたのか、彼女が居なくなって初めて弁護士も私も知ることとなった。複合機に不具合が起きた時の対処法、共有のフォルダにアクセスできなくなった時の繋げ方、クライアントごとに変える電話対応や書類の出し方、事務所内の植物の手入れ、ボス弁が使っているマグカップの漂白除菌、洗面台の排水溝の掃除、事務所内の備品管理。法律事務所のパラリーガルとしての業務の他に、彼女は一体どれだけの、名もなき家事ならぬ名もなき業務を抱えていたんだろう。浅見さんが退職してから一か月。まだ戦力ともならない後藤さんへの指導に時間を奪われ、自分が本来行うべき業務はどんどん滞り、案件処理以外の諸雑務を行える余裕などは全くなく、目に見えてうちの事務所は荒廃していった。「ここは清潔感があっていいわね」とクライアントから褒められていた自慢の事務所は、いたる所が小汚く、書面の提出も期限ギリギリとなり、アクシデントとはいえないものの、小さなインシデントが重なるようになり、裁判所からも依頼者からも小言が増え、弁護士も私も常に余裕がなくて苛々としていた。要塞のようにデスクに積みあがった案件ファイルに囲まれながら、提出予定の訴状と証拠の照らし合わせをしている時にその電話は鳴った。二コール目を聞き、三コール目が鳴ってもピックアップをする様子がない後藤さんを横目で見て、案件ファイルの山の向こう側にある自分の電話器に手を伸ばす。
「はい、片寄法律事務所でございます」
「あの、なんか書類が送られてきたんですけど」
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「梅津といいます。いや、なんかよくわからないんですが、昨日そちらからファックスが送られてきて。伊藤さやかさんって人の通帳の写しなんですけど」
 少々お待ちくださいと言いながら、耳と肩で受話器を挟み込んで、パソコンの検索システムを立ち上げ、電話機のディスプレイに映る電話番号を検索してみる。当該なし。次に「ウメヅ」と入力をして検索をかけるも該当なし。これ以上は待たせられないなと思いながら「イトウサヤカ」と検索を掛けると、破産申立中の案件でヒットがかかった。
「お待たせして大変申し訳ございません。こちらにて少々確認をさせていただければと思います。梅津様のファックス番号と、折り返しのお電話番号をお伺いしてもよろしいでしょうか」
 えー、なんなの、どのくらい時間かかるの、という文句に申し訳ございませんを繰り返しながら、聞き出したファックス番号と電話番号をメモに走り書きして電話を終えると、後藤さんのデスクの斜め後ろにある複合機に向かった。後藤さんの背後を通る時、チラッと見た彼女のパソコン画面にはファッション通販サイトが表示されていた。複合機のモニターに昨日の通信履歴の画面を呼び出し、手元のメモと照らし合わせる。昨日の終業時間間際に、そのメモに書かれたファックス番号に宛てたファックスの送信履歴が残っていた。頭から三番目の数字が、裁判所破産部宛てのファックス番号と一つだけ違うものだった。眉間を押さえながらデスクに戻り、伊藤さやかさんの破産の案件システムを立ち上げて経過履歴を確認する。八月二十日、裁判所から破産者の最新の通帳の写しを提出するよう指示あり。同日、依頼者宛に同資料の送付のお願い。八月二十一日、依頼者から通帳の写しをPDFにてメール受信。同日十七時二十五分、裁判所宛てに通帳の写しをファックス。作業者欄に「後藤」と書かれているのを確認するも、確認するまでもなく、昨日のことはまだ自分の記憶の中にあった。定時間際に後藤さんから送付書面のダブルチェックを依頼され、書面に書かれた宛先、事件番号、当事者名、ファックス番号、添付資料に間違いが無いことを確認して彼女に戻したはずだった。記録に残っている送付書に書かれたファックス番号と、手元にあるメモに書かれたファックス番号は同じであり、案件管理システム上の裁判所のファックス番号と、それらは相違している。つまり、後藤さんが作成した書面に記載されていたファックス番号がそもそも間違っていて、ダブルチェックをした私もその間違いを見落とし、そのままファックスをしてしまい、裁判所ではない、別の誰かのところに、依頼者の通帳の写しが届いてしまったということなのだろう。深い溜息をつき、手を組んで額に当て俯いた。ミスの原因の大元は後藤さんにあるとはいえ、ダブルチェックで間違いに気付けなかった私も同罪だ。パーテーションの向こう側にいるボス弁は、起案が溜まっているのに話の長い依頼者からの電話に捕まっていて、その声色から、姿は見えないものの苛々としている様子が目に浮かぶように伝わってくる。事務所内でミスが起こった時、最終的にどのような対応をするか判断し、責任を負うのは弁護士だ。ただの事務員である私が今の状態で勝手に動くことはできない。弁護士のその電話が終わるタイミングで、事態の報告をしなければいけないことを考えて胃がキリキリとした。

 自宅のリビングの扉を開けるとソファーに寝転がってテレビを見ている正人(まさと)の姿が目に入った。ただいま、と言うと、視線だけをこちらにやって、おかえりと返事をされる。パジャマ姿のままの正人を見て、今日はシフトに入っていない日だっけとぼんやり考えるも、それを正人に訊ねるもの億劫で、代わりに、もうご飯食べた? と聞いた。まだ、という短い返答を、ダイニングテーブルの椅子に鞄を置きながら聞く。正人のその返答には反応しないまま冷蔵庫を開けて、ずらりと並んだ作り置きのおかずのタッパーをいくつか見繕うと、何か違和感を感じた。
「ねえ、今日お昼は何食べた?」
「昼? どうだろ。何食べたかな」
「今日、仕事入ってない日だよね? おかずが一品も減ってないんだけど。別に、外で食べてきたとか、デリバリーを頼んだとかならそれでいいけど」
「いや、どうだったかな。外で適当に済ませたかも」
 あやふやで要領を得ない回答に苛立ちを増しつつ、まあいいや、と思いながら作り置きの青椒肉絲と冷凍のご飯を電子レンジで温め、お湯を注ぐだけのインスタントの卵スープをそれぞれ二人分用意してダイニングテーブルに置いた。ソファーから立ち上がった正人がいそいそと食卓に着く。自分より二十歳年上の正人を見て、老けたな、と思う。同じ損保会社の同じ部署で、交通事故の示談交渉人をしていた私と、車のアジャスターだった正人が付き合い始めたのは八年前のことだった。当時はまだ正社員だった正人は交通事故の知識も豊富で、没交渉となりそうな難しい案件のアドバイスもよくしてくれて、尊敬と愛情がごちゃ混ぜになったまま好意を抱き、次第に身体の関係を持つようになっていった。バツイチ子なしの正人と行き遅れアラフォーの私の内密の交際は、「昨日、宇野さんと木澤さんが赤坂でいちゃついてるとこ見ましたよー」という新入社員の暴露によって明るみに出た。自分たちの交際が社内に知れたら好奇の目に晒されることは分かりきっていたし、そうでなくてもいい歳同士のカップルなので、外で会う時も節度を守ろうとお互いに注意はしていた。ただ、この歳でわざわざ入籍するのももう面倒臭いよねという双方の意見のもと、事実婚のために二人の名義のマンションを購入したその日は二人とも浮足立っていて、事実婚記念日として行ったレストランでもいつも以上に飲んでしまい、ホテルに向かう道中でどうしても彼に甘えたくなってしまっていた。社内に噂話が広まるスピードは自分の想像以上に早かった。休憩室に併設された喫煙所の前を通る時、「六十代と四十代が付き合ってるって、色々ときついよな。ヤってるとことか想像できないわ。したくもないけど。そもそも勃つのかな」という声が聞こえてきた。普通に勃つし、お前らに想像されたくもないし、と思いながら、デスクに戻り、システムの書式集の中から退職届を探し出し、記入をしてその日のうちに部長へと提出した。正人が六十五歳を迎えて正社員を定年退職をしたのは、私の依願退職から二年後のことだった。正人は退職後も嘱託として同じ会社で再雇用され、週三日の勤務を続けているけれど、私が会社を辞めて法律事務所へと転職をして以降、お互いに仕事の話をすることは減り、同時に会話の内容も薄くなり、セックスの頻度も減った。セックスをしない二十歳差のカップルは、もはや親子に近いものともなり、それを、お互い落ち着いたと捉えるのも、マンネリと捉えるのも違う、何かは分からないけれど確定的である不協和音の中にいながら事実婚を続けてきた。一度、正人が、法律事務所の弁護士はどんな人なの? と聞いてきた時、私と同じくらいの年代で、落ち着いた先生だよ、すごい爽やかな人、と返したが、正人はふーんと答えただけで、特になんの感想も持たない様子だった。妬いてほしかった。歳も近い、爽やかで、地位も経済力もある男性が自分の妻の傍にいることに、もう少し危機感を抱いてほしかった。私たちはいよいよダメなのかもしれないと思った。或いは、もうとっくの昔にダメになっていたのか、そもそも最初からうまくいくはずのない関係だったのか。そんなことばかりがいつも脳裏に張りついていた。
 そんな思いに悩まされる日々だったからこそ、浅見さんのことはずっと気になっていた。二十七歳の浅見さんと、四十六歳のボス弁との間には約二十の歳の差があったけれども、彼女とボス弁の間で、ふとした時に出るちょっとしたタメ語、雑に置かれたボス弁のコートをラックに運ぶ浅見さんの姿、今日は少し寒いですねと彼女が言った時、ボス弁が、自分が執務室で使っていた使っていたカーディガンを貸してあげたこと、私が入所するまで、ずっと一弁護士、一事務員で事務所を運営してきたこと、限りなく黒に近いグレーな事実がここにはあると思いながらも、面倒なことに巻き込まれるもの嫌で何も気付かない振りをして、彼らと一線を画し、仕事を続けてきた。幸いにも、ボス弁とは事務的、機械的に健全な関係を築いて業務を行うことができたし、死ぬほど多い業務量をこなしていくなかで、浅見さんと私は戦友のように仲良くなることができ、所内の関係性はみんな良好だった。ことがおかしくなり始めたのは、一年前、新しい顧問先が増えることと、その業務の処理の為、もう一人弁護士を増やすつもりだとボス弁が言い始めてからだ。ボス弁が法科大学院で講師をしていた頃の教え子の一人で、実務家としてはまだ二年目ながら、大手の法律事務所に勤め、渉外案件や大手企業の顧問の実務経験もある、有能で、若くて、華奢で、どうみても顔が可愛い弁護士がうちに来るとの話だった。
 浅見さんが法律事務所の仕事に精通していたのは、単に彼女の勤務歴が長いからとか、元々仕事ができる人だったからという理由だけではない。彼女もまた、事務員をやりながら、司法試験の受験をしていたからだ。「寝る前にはなんとかして勉強時間を確保しようと思っているんですけど、年々体力が衰えていくし、なかなかしんどいんですよね。私、あと一回しか受験のチャンスがないし」という雑談を彼女と交わした当時、ボス弁は外出ばかりで事務所を不在にすることも多く、案件の進行のほとんどを彼女が管理し、ボス弁の代わりに書面の起案も行い、タイムカードには載せていない残業や休日出勤もしていると私も知っていたが、力なく「浅見さんなら大丈夫ですよ」と答えることしかできなかった。浅見さんがオーバーワークなのも、日々げっそりとしていくことも、ボス弁がそれに気付いていながら気付かないふりをしていることも、私も気付きながら気付かないふりをした。それでも、彼女にはいつか報われて欲しいという気持ちもあった。なんとかして司法試験に合格して、うちで弁護士をやってほしいとも思っていた。そんな中で降って湧いたのが、その新しい弁護士の入所の話だった。
 今、もし彼女と腹を割って話ができるのなら、もう少しまともなアドバイスができるかもしれない。歳の差カップルなんて、上手くいかないことの方が多いよと。同じ職場にいる時は尊敬が多いかもしれないけど、その土台がなくなったら、関係を維持することも難しいかもよと。うちの弁護士、確かに爽やかで外面も良いけど、浅見さんならもっと良い人見つかると思うよと。ボス弁とはサッパリ別れて、自分の将来のために司法試験の勉強を重視した方が良いんじゃないと。そう話したいと思いながら、きっと、八年前の自分に同じことを言っても正人と別れることはなかっただろうし、浅見さんに何を言っても聞かないのかな、とも思う。結局、彼女が内心で何を思っていたのかも分からないまま、その半年後に新しい弁護士はやってきて、浅見さんは退職の意を表し、更に半年後に彼女はうちの事務所を辞めた。個人でLINEの繋がりはあるものの、在職中はお互いに適度な距離感で仕事をしてきたので、「元気ですか? 今何をしているんですか?」と気軽に連絡を取れる間柄でもない。
 たいして味のしない青椒肉絲を平らげると、食器洗うの、任せても良い? と正人に聞いて、彼が頷いたの確認し、キッチンのシンクに自分の食器を置いてから、バスルームに向かいシャワーを浴びた。濡れた髪をタオルドライしながらリビングに戻ると、帰宅した時刻にタイムスリップしたのかと思うほど同じ体勢で、正人はソファーに寝ころびながらテレビを見ている。ダイニングテーブルの上に正人が使った食器がそのまま放置されているのを見つけ、小さく舌打ちをしてキッチンのシンクまで運ぶと、シンクには私が置いた食器がそのまま残っていた。今度は盛大な舌打ちをしてスポンジに洗剤を含ませるも、ソファーに横たわる正人は微動だにしなかった。

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