アイスクリームは腐らない 1

―聖奈(せいな)―

 八月の強烈な日差しはトレンチコートを貫通してじりじりと肌を焦がしているように感じた。中に着たニットはできるだけ薄手のものを選んできたつもりだったけれど、通気性のないウールの生地は、噴き出る汗によって一人用のサウナを模しているようだった。熱気を分散させようと右手でVネックの胸元をパタパタと扇ぎ、左手を目元にかざして日陰を作ってみたが、猛暑日の直射日光の前ではすべてが無力だった。非情な蒸し風呂地獄に包まれ、思わず顔をしかめてしまう。
「そっち側、日光ヤバいですね。大丈夫ですか?」
 小さな丸テーブルを挟んで向かいに座っていた男の子が、心配そうに訊ねる。テーブルのそばで、傾斜をもって刺されたパラソルは、彼が座る椅子側には影を作っていた。
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
 大丈夫です、と返すものの、全然大丈夫ではない。このままだと熱中症の危険もあった。そうはいっても、彼に「大丈夫ではないです」と言ったところで何も始まらないことは分かっていたから「大丈夫です」と返した。できればコートだけでも脱いでしまいたいが、現場の状況がなんとも判別できない。直ぐにカメラテストが始まるなり、監督がちょっと画を見ておきたいとか言うなら、今、勝手に衣装を脱ぐことはできない。
「今日、本当暑いですよね。三十五度超えてるんでしたっけ? これ、いつ始まるんだろう。コート脱いでも大丈夫かな」
 向かいに座る男の子とも、建物の日陰でスマホをいじっているスタッフたちともいえない誰かに、独り言ちのように呟いた。
 ドラマや映画、CMの撮影は、すべてメインキャストを中心に進んでいく。メインキャストの到着を待ち、メインキャストのヘアメイクを待ち、監督がメインキャストに進行の説明をするのを待ち、メインキャストが台本の読み合わせをするのを待ち、スタンドインがメインキャストの代役をしてカメラテストをするのを待ち、そうしてようやく本番が始まる。私たちのような「背景」や「小道具」でしかないエキストラに、撮影現場での人権はない。スタッフから、あっちへ移動しろと言われたら即座に移動するし、別の服に着替えろと言われたら、更衣室も何もない野ざらしの道路で、持ってきた大量の自前の服の中から着ているものとは違う系統の服を選びだして着替えるし、ここで待っていろと言われたら、極寒の真冬の公園だろうが、熱波が立ちこめる真夏のアスファルトの上だろうが、大雨が降りしきる街中だろうが、物置のような埃まみれの倉庫の中だろうが、何時間でも指定された場所で待たなければいけない。
 今が何の「待ち」なのかもわからないまま、このテーブルに配置されて既に二時間が経過していた。今日はまだ座って待てる現場だったからよかったけれど、それにしても日差しの強さがエグかった。暫くして助監督から、再開は十四時の予定ですと、エキストラ全体への声掛けがなされた。足元に置いた鞄からスマホを取り出して時刻を確認すると、十二時半を指している。はあーとため息をつくも、再開目途を教えてもらえたことに安堵して着ていたコートを脱いで椅子の背もたれにかけた。真夏の現場で秋冬のシーンの撮影をするのと、冬の現場で春夏のシーンの撮影をするののどちらが過酷かを問われても、答えるのは難しいだろう。足元の鞄を膝の上に移動させ、お茶の入ったペットボトルと汗拭きシートを取り出す。一枚もらっても良いですか? 僕、飲み物以外、荷物全部ロケバスに置いてきちゃって、と言う目前の男の子に、カバーを開けた制汗シートの袋を差し出す。
「前の現場が押してるらしいですよ」
「あ、今日、午前中も別で撮ってるんですね。どうりでスタッフが少ないと思った。押してるのか……。バラシ時間も伸びますかね」
 今日の集合は十時で、終了予定は十八時だと、出演を仲介しているエキストラ事務所から伝えられていた。昼食を済ませたうえで十時に集合場所に到着するようにという指示だったので、もしバラシの時間が十八時を過ぎるようだったら、だいぶお腹が空いてしまう。
「お昼ご飯食べてきました?」
「はい、食べてきました。けど、僕、家が結構遠いので、食べたの八時とかなんですよ。遅めの朝ごはん兼早めの昼ごはんみたいな感じで。お腹空いてきましたね。おにぎりかなんか持ってくれば良かった。って言っても、荷物全部ロケバスの中なんですけどね」
 制汗シートで首筋をなぞる男の子は苦い顔をして笑った。
「ご実家暮らしですか? 家から現場まで距離があると色々大変ですよね。まだ学生さん?」
「えーっと、今年の三月に大学は卒業しました。まだ一人暮らし出来るだけの収入もないので、実家暮らしなんですけど、今日もここまで来るのに二時間近くかかっちゃって。早く二十三区内に引っ越したいですね。そしたら、どの現場に行くにもだいぶ楽になりますし。この現場、再開までまだ結構時間あるし、椅子、ちょっとこっちに寄せちゃって大丈夫だと思いますよ。ずっとそっちにいたら焼けちゃいそう」
 自分の椅子を少しずらして、私も日影に入るようスペースを作ってくれる男の子を見ながら、今日の現場は当たりだなと思った。初対面であっても人並の意思疎通と会話のキャッチボールができる人は、実はそんなに多くないということを、エキストラの仕事をしてから初めて知った。その上で、周りにも気を遣うことができる人なんて、ほとんど絶滅危惧種に近かった。集合場所に集められたエキストラは一列に並べられ、助監督がその「品定め」をして、その日の即席の「カップル」「友達同士」「上司と部下」「従業員」「ただの通行人」などの名も無き役柄を作っていき、それぞれを適当な場所へと配置する。現場で初めて組まされた、その日の即席の相手方が話しやすい人かそうでないかで、その現場での過ごしやすさは全然違った。なにがなんでもカメラに映りたいのかわからないが、監督の指示を無視してカメラに向かって進んでいく人とカップルを組まされた時、「そのカップル、勝手に動かないで」と監督からとばっちりで怒られたのを思い出して少しげんなりする。
「学生さんじゃなくて、平日のこの時間に仕事に来ているってことは、俳優の仕事が本業の人?」
「はい。でもまだ全然仕事取れてないんですけど」
「そうなんだ。どうりでしっかりしてると思った。私みたいなエキストラと組まされてごめんね」
「え、エキストラさんなんですか? こんなカメラ写りの良い位置に配置されてるし、綺麗だし、現場慣れしてるから、ちゃんとした芸能事務所の人かと思った」
「ありがとう。私、社会人経験も多少はあるから、現場の雰囲気とか、助監さんの機嫌とか、そういう空気読んで動くの得意なのかも」
 大学を卒業したばっかりということは、私の五歳下か、と簡単に頭の中で計算し、そんな若い子から「綺麗」と褒められたことへの嬉しさと、五歳も年上の女なんかとカップル役を組まされてごめんねという申し訳なさと、社会人経験もあるくせに、なんでこんな真夏の平日に、拘束時間八時間で二千円ほどのギャランティしかもらえないエキストラの仕事をしているんだろうという自問が頭の中を巡り回る。大学では何を専攻していたの? とか、在学中ほとんどコロナ禍の世代? とか、卒業旅行はどこかに行った? とか、当たり障りのない質問をする私に、語学系の学部で英語と中国語を勉強していましたとか、授業は半分くらいオンラインでしたねとか、卒業旅行は、本当は海外に行きたかったんですけど、沖縄に行きました、とか当たり障りのない返事を彼がしているうちに、「再開します。スタンドイン入ります」という助監督の声が現場に響いた。椅子を元の太陽の下まで戻し、背もたれにかけてあったトレンチコートを羽織ると、エキストラのくせに一丁前に役者モードに入る。「じゃあ、エキストラさんたちも本番と同じように動いて」という助監督の支持に従って、さっきまで身の上話をしていた、この現場で初めて会った彼と、即席の恋人同士になる。でしゃばらず、不自然にも見えないギリギリのラインで、彼の彼女を装い、パントマイムでおしゃべりをした。でも、どうせ自分たちの姿は、ほとんどモザイクといっても過言ではないくらいにぼかしがかかった姿となって放送がなされることを、彼も私も知っている。きちんとカメラのピントを合わせてもらえる主演女優は、スタンドインと、エキストラによって何度もカメラテストを行う様子を、マネージャーから日傘をさされ、ヘアメイクからハンディ扇風機を当てられ、ストローの刺さったミネラルウォーターを飲みながら、用意された椅子に座って見ていた。

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