アイスクリームは腐らない 2

―夏樹(なつき)―

 週に一回の演技の稽古は、筋トレとストレッチから始まる。通い始めた最初の数回こそ新鮮で楽しかったけれど、三カ月を過ぎる頃にはもうマンネリと化し、腹筋の時も、腕立て伏せの時も、身体が辛くならない微妙なラインまで手を抜くようになった。筋トレに続いて行う全員での発声練習では、もう完全に気を抜いて口パクになっていたのを、演技指導を行う事務所の社長にバレていたのかもしれないけれど、社長はチラっとこちらを見ただけで特に何も言及せず、「今日はエチュードをやるから」と全体に対して言った。この芸能事務所に所属することを選んだのは、自分が憧れていた舞台俳優が所属していたからと、大手の事務所で埋もれるよりも、こういう小さい事務所の方がチャンスを掴める気がしたからだ。でも現実はそう甘くなかった。事務所に入ってくる大きな仕事は、看板俳優である先輩をご指名のものがほとんどで、そうでなかったとしても、その先輩のスケジュールが空いている限り、大半の仕事はそこに回され、自分のようなその他大勢の所属俳優に役付きの仕事が回ってくることはほぼなかった。その他大勢にふさわしい、書類選考もほとんどされないようなエキストラの現場にばかり配置されるうちに、自分の中のモチベーションはどんどん下がっていった。
 「野地と、松浦で交通事故のシーンを」と社長が声を掛け、事務所の二番手、三番手の俳優が稽古場の真ん中へと躍り出る。憧れていた看板俳優の先輩は、もうこんな稽古には顔を出さない。一人が車に轢かれ、もう一人が周りに助けを求めるという即興劇が始まっていくのを、内心冷めた目で見ていた。
 
 半日かけての稽古を終えると、稽古場がある恵比寿から自宅のある八王子へと帰る途中の、荻窪で電車を降りた。商店街を抜けた先にある、駅から徒歩十分の七階建てのマンションの五階に到着すると、突き当りの部屋のインターホンを押した。応答がないままに開いた扉から顔をのぞかせた衣里(えり)に対し、不用心だから、何の確認もなく開けるなって何度も言ってるだろと言うと、夏樹がこの時間に来るってわかってたし、夏樹以外に訪問者もいないしと返される。せめてドアチェーンは掛けたままで開けてくれと文句を続けながら玄関に入ると、スニーカーを脱いで衣里が用意したスリッパに履き替える。エプロン姿で出迎えた衣里はキッチンに戻り、切り終えた野菜をラップで包んで、ワンポーションにする作業を再開した。下処理をして、小分けにして冷凍しておけば、頻繁に買い出しに行かなくて済むし、残業になった時も簡単に炒め物とかできちゃうから楽なんだと、社会人になって二か月目の衣里がそう言った時、大した生産性もない、売れない、売れる気配もない俳優の自分と、化粧品メーカーに就職し、安定した給与をもらい、一人暮らしを始め、家事もこなす彼女との間に大きな溝ができたようにも感じた。大学生だった頃は、四段階評価のうちの下から二番目ばかりという同じような成績で、単位取得が楽な授業を一緒に選択し、そんな授業でさえも頻繁にさぼってカフェで新作のフラペチーノを飲むのに付き合わされたり、衣里は居酒屋、俺はコンビニという平凡はアルバイトをして、その僅かなアルバイト代で均一料金が売りの焼き鳥屋で飲み、月に二、三回、少しでも安く、フリータイムの時間が長いラブホでセックスをする普通のカップルだったのに、俺たちの間にはいつからこんな溝が生まれたのだろう。大学三年の秋からインターンに参加し始めた衣里と、企業の入社選考に全く通らず、同時に、親戚から声を掛けられて応募したメンズ雑誌のコンテストの駒を進めた俺との間には、既に少しずつ亀裂が入っていて、それは月日の経過とともにどんどん深くなっていき、今となっては表面上は小さな割れ目なのかもしれないけれど、断面図で見たらきっと、深海にまで届くような深いものとなっているんだろう。
 せっせと作業をする衣里を手伝うこともなくキッチンをスルーしてリビングに入り、ソファーに腰掛けた。パンツのポケットからスマホを取り出してメールを確認すると、マネージャーから三通のメッセージが来ていた。「①明後日急募! スマホCM 場所・時間未定 ギャラ五時間三千円」「②冬ドラマ通行 八月二十九日時間未定 都内スタジオ予定 ギャラ一律五千円」「③ビールCM 役付き(未定) 八月二十三日八時から十六時 渋谷予定 ギャラ一律三千円」というメッセージを確認し、役付きなのに「(未定)」ってなんだよと思う。セリフのある店員役とか、メインキャストの友達役とか、何かしら役が決まっていて、それに合いそうな俳優宛てに連絡を送っているのではなく、実体としてはエキストラだけど、「役付き」って書いておけばきっと誰かしら釣られてくれるだろうという事務所側の思惑によって所属俳優全員に送られてくるメールにウンザリする。スマホの画面を切り替え、カレンダーアプリで予定を確認してから、「明後日のスケジュール空いてます。①の案件、可能です」と返信した。本当は、他の二つの案件もスケジュールは空いていたが、「どんな現場でも行きます」と二つ返事ができないくらいに自分の気持ちは腐りかけていたし、選考の結果が出るのは良くて撮影の前々日、酷い時には前日の二十二時を超えてから「明日の現場、朝六時半に六本木集合です」とか連絡が来るもんだから、何も考えずに案件を取っていると、終電帰宅からの翌朝始発集合なんてことも重なるようになり、次第に身体もついていかなくなっていた。そんな時、八王子の自宅まで帰るよりも衣里の家の方が現場から近いからと泊まらせてもらうこともあったけど、私も持ち帰りの仕事とかあるし、急に家に来られるのはちょっと、と言われて以来、こうして週一回、稽古後の夕刻頃に衣里の家で飯を食ってから帰るのが定番の逢瀬となっていった。
 スマホをガラステーブルの上に放り投げると、ガチャンという雑な音がした。透明な天板を通して、ラグの上に置かれた衣里の鞄が見える。レジュメは夏樹がもらったやつを共有してもらうからいいやと言って、大学の授業にもハイブランドのミニバッグしか持ってこなかった衣里の鞄は、今やA4サイズの書類が大量に詰め込める、オシャレ感が皆無の特大のビジネスバッグに変わっていた。
 完全に閉まりきっていなかったリビングの扉が開く音とともに、キッチンに潜んでいた煮物の匂いがリビングを侵略してくる。煮物が入った和物の器と、白飯の盛られたお椀がそれぞれ二個ずつ乗っただけで定員ギリギリとなる小さなお盆を、衣里は両手で掴んで慎重に運んでいた。扉を開ける際にはおそらく足を使ったんだろう。すべての食器をテーブルに移し終わると、夏樹も運んでと言って、衣里はキッチンに舞い戻っていった。重い腰を上げてキッチンに向かうと、衣里はガスコンロの上で温められていた味噌汁を椀によそうところだった。家庭的な衣里の姿も、演技の稽古と同様に最初こそ新鮮だったけれど、最近は見るたびに胃を絞り上げられるような息苦しさを感じるようになっていた。視線を外したまま、指示されたとおり味噌汁とサラダとお茶をテーブルまで運び終えると、ラグに置かれたクッションに座して二人で簡素な夕飯を食べた。レベルが多少上がっただけで、保育園で好きな子に付き合わされたおままごとと、大して形相は変わらないなと思う。俺はきっと、家に帰ってから、母親が用意した「ちゃんとした夕飯」も食べるのだろう。美味くも不味くもない、早めの夕飯のふりをした軽食を食べている間、つけっぱなしのテレビから、春に撮影をしたCMが流れてきて「夏樹が出ているやつ!」と衣里は嬉しそうな声を上げる。ほんの一秒も映らないそのCMに自分が出ていると友人に公言できるだけの度量はなく、そのCMの撮影に参加していたことを知っているのは、両親と衣里くらいだった。
 「後片付けは夏樹の仕事だから」と言う衣里に従ってそつなく洗い物を済まし、何となく甘えてくる衣里を適当にあやし、いつもと同じ流れでセックスをして、ピロートークを求める衣里の頭を虚ろに撫でる。うちの親が、今度彼氏をうちに連れて来いって言ってた、という衣里の言葉は、狸寝入りをして聞き流した。

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