アイスクリームは腐らない 5

―夏樹―

 運転手が開けた自動ドアから先にタクシーを降りると、隣に座っていた彼女は領収書をくださいと言っていた。新宿通りから一本入った、新宿と三丁目駅の間、限りなく三丁目寄りに建つそのマンションは、少し寒々しい雰囲気があった。精算を終えてタクシーを降りてきた彼女に、コンビニとか近くにありますか? 僕何か夕飯買ってきますよと言うと、コンビニならちょっと行ったところにあるけど、適当なもので良いならうちにも食料あるし、何回もオートロック解除するのも面倒臭いからこのまま一緒に上がってくれた方が助かると返されたので大人しく従った。九階にある奥から二番目の部屋のロックを電子キーで解除した彼女に促されるままに玄関に入る。衣里のマンションと間取りはほとんど同じなのに、シンプルというか、簡素な作りに見えるのは、絶妙に生活感がないからだろうか。ちょっと片づけたいからここで待っててとかそういう言葉があるのかと思ったが、彼女はなんの躊躇いもなく自分を室内に案内した。部屋に干されていた下着から思わず目を背ける。
「うち、ラグ敷いてないんだよね。掃除するのに邪魔で。そこのソファー座って。ご飯、本当に味気なくて申し訳ないんだけど、カップ麺で良いかな? 好きなの選んで。ミネラルウォーターは冷蔵庫の中。ケトルはここ。ごみはまとめてこのごみ袋の中に入れておいて」
 シンク下の収納棚から何種類かのカップ麺と割り箸を取り出し、キッチンに置いて、冷蔵庫、ケトル、床に直置きされたごみ袋が順次指さされるのを見届けると、私シャワー浴びてくる。帰って直ぐ諸々落とさないと気持ち悪いんだよねと言って、彼女はバスルームへと消えていった。独り残されたキッチンで冷蔵庫を開けると、中にはヨーグルト、サラミ、卵、豆腐、少量サイズの調味料、ミネラルウォーターのペットボトルが簡素に収納されていた。ミネラルウォーターのボトルを手に取ると中身の残量がそれほど多くないことに気付き、水道水を使った方が良いのか逡巡するも、「マンションの水道水は貯水庫に溜められた水だから、あんまり飲食には使わない方がいいよ」と衣里が言っていたことを思い出し、中身を全てケトルに流し込んで電源を入れた。空のペットボトルをごみ袋の脇に置き、塩ラーメンのフィルムと蓋を剝がした時、カチッという電気ケトルの沸騰が完了する音が聞こえた。お湯をカップ麺に注ぐと、規定線のギリギリ下でケトルの中身はなくなった。カップ麺の蓋をして割り箸を乗せ、リビングに戻りソファーに腰掛ける。スマホのタイマーを三分に設定してメールボックスを開くと、マネージャーからの案件メールが二通来ていたが、無視してインスタを立ち上げ流し読みする。事務所の先輩が主演映画の宣伝の投稿をしているのを見て、「いいね」を押そうかと迷っていると、アラームが三分の経過を告げた。アラームを解除し、「いいね」は押さないままインスタを閉じる。空腹且つ疲労困憊な身体にカップ麺を搔っ込むと、体内の塩分濃度が上がっていくのを感じた。朝七時に家を出たあと、今日はまだ何も食べていない。機材置き場兼エキストラの控室から、こそこそと弁当を運び出してキャストや他のスタッフに配るアシスタントには、罪悪感とかなかったんだろうか。せめて、何時までは休憩時間ですとだけでも声を掛けてもらえたなら、近くにあるコンビニを探して弁当を買ってくることもできたが、何の説明のないままではこちらも勝手に現場を離れることはできない。まだ撮影のことをよく分かっていなかった頃に行った現場で、ちょっと飲み物買ってきて良いですか? と近くにいたスタッフに尋ねたら、私メイク担当なので分かんないですと一蹴され、まあ大丈夫だろうと自己判断をしてそのままコンビニまで買い物に行ったら、その間にロケ隊が別の撮影場所に移動してしまったことを思い出した。
 スマホのバイブ音が短く鳴り、衣里からのLINEの到着を告げるポップが立ち上がる。
「来週の土曜日、実家に帰るんだけど、夏樹も一緒にどう?」
「別にちゃんとした挨拶とかそういうのじゃなくて」
「ランチを食べに行く予定なんだけど、両親が、よかったら夏樹君も一緒にどう? って言ってきたから」
「撮影とか入っていた大丈夫だよ」
 四つのメッセージに既読をつけたあと、スケジュールのアプリを開いて来週の土曜日に何も予定が入っていないことを確認するのと同時に、スマホのバッテリーがゼロになって電源が落ちた。背後から扉が開く音がして、紅茶とかそういう系の匂いのシャンプーなんだろうなという香りを漂わせた彼女が部屋に戻ってきた。カップに沈んでいた麺の残骸とスープを煽って飲み込むと、ご馳走様でした、と彼女に告げる。
「橋本さん」
「夏樹で良いです。芸名も、実は名字付けてなくて、夏樹って名前だけなんで」
「夏樹君、シャワーは使う? というか使って。私、若干潔癖症で、外の埃とか家に持ち込まれるの嫌なんだ。タオルと、大き目のTシャツとジャージ、脱衣所に出しておいたから」
 さっきのタクシーの領収書を眺めながらそう言う彼女に従い、空のカップ麺をごみ袋に突っ込むと、さっきまで彼女が使っていた、まだ湿度の高い脱衣所に入った。洗面台には、よく知られているハイブランドのスキンケア用品が並んでいる。脱衣所の扉を閉めかけた時、扉の向こう側で、シンク下から新しいミネラルウォーターのペットボトルを取り出す彼女の姿が見えた。
 彼女と同じ紅茶系のシャンプーの匂いを漂わせながらリビングに戻ると、彼女はベッドの上で何か書物を読んでいた。すいません、シャワーもありがとうございます、と声を掛けると、あー、と言って彼女は半身を起こし、ベッド脇のサイドテーブルに「司法試験 論文 民法」と表紙に書かれた書物を置いた。
「僕こっちのソファーお借りします。今日は本当に色々とありがとうございました」
「待って。夏樹君、身長は何センチ?」
「百八十です」
「そのソファーは二人掛けで、身長百六十センチの私でもまともに横になることはできないの。確実に身体を痛める。狭くて申し訳ないんだけど、こっちのベッドを一緒に使って。枕を貸すのは私も抵抗があるから、そのクッションを使ってもらえたら助かるけど」
「でも、それはさすがに……」
「大丈夫。襲わないから。それに、うち、余分な毛布とかタオルケットとかもないんだ。そのままソファーで寝たら多分風邪ひくよ」
 もういいかな、さすがに眠いんだ、と言ってベッドの左半分に身を寄せた彼女は、頭上にある充電器にスマホを繋いでタオルケットを肩まで引き上げた。部屋に掛けられた時計は午前二時三分を指している。これ以上押し問答をするのも確かに時間の無駄だと思い、あきらめてソファーに置いてあったクッションを手に取り、ベッドの右側に潜り込んだ。ライトのリモコンそっちなんだ。消してもらえる? と言いながら、自分にもタオルケットを掛ける彼女の言葉に従い、サイドテーブルに置いてあったリモコンを使ってリビングの電気を落とした。
「浅見さん」
「聖奈でいいよ。もっとも、私はただのエキストラだから、それが芸名とかそういうわけじゃないけど」
「聖奈さんがさっき見てた本……司法試験の勉強をしているんですか?」
「そう。受験生なの。司法試験ってマックス五回まで受験ができるんだけど、もう四回落ちてて、あとがないんだ。だから、仕事辞めて受験勉強に専念しつつ、たまにエキストラに出てギャラ貰って、生活費の足しにしてるの。まあ、ご存じのとおり、エキストラのギャラなんて微々たるもんだけどね。でも、待ち時間長い時とかテキスト読んだりもできるし、ずっと勉強のしっぱなしも息が詰まるから、現場に行くのがちょっとした息抜きにもなってて」
「どうりで、なんか現場でも頭の回転が早いなって思ってました。司法試験とかすごいですね」
「ただの受験生だからすごくないよ。合格したら話は別だけど」
「なんで受けようと思ったんですか」
「彼氏が弁護士だったから。通ってた大学の講師でもあったんだけど。大学出てからはその人の法律事務所で事務員をやりながら司法試験受けてて、合格したら弁護士としてその事務所で働く予定だったの。でも、私がなかなか合格できなかったから、別の弁護士を入れられちゃった。私より年下で、すごい可愛くて、実績もある子。でもまあ、ずっと合格できなかったのは私の実力不足が原因だし、誰を勤務弁護士として採用するかはボスの自由だし、自分が選ばれなかったからって不貞腐れるもの大人気ないと思ってたから、事務の仕事は続けるつもりでいたんだけど、溜まってる仕事の処理をしようと思って休日出勤したら、その二人が事務所でやってるところに遭遇しちゃって。あ、なんかもう無理だって思って辞めちゃった。司法試験自体を諦めようかとも思ったけど、なんていうか、それはもう自分の中での意地で、合格してやろうみたいな」
「エグいですね」
「エグいよね」
 あの、こういう時、僕、聖奈さんとやった方が良いんですか? と聞くと、隣に寝転ぶ彼女はどっちでも良いよと言って微かに笑った。
「やっても良いしやらなくても良い。やるならとっとと終わらせてほしい。寝てる間に犯されても別に構わない。好きにして。もう眠気が限界」
 そう言って脱力した彼女は、数分後には寝息を立てていた。寝込み中を襲った方が良いのか考えているうちに、自分もいつの間にか寝落ちしてしまっていた。

 コーヒーの香りで目が覚めると、見知らぬ天井に頭が混乱するも、直ぐに昨日の一連の流れを思い出す。ソファーに座る彼女はコーヒーを啜りながら昨晩サイドテーブルに置いた司法試験のテキストを読んでいた。夏樹君も飲む? という問いを固辞し、昨日着ていた服を再度着用すると、お礼がしたいのでと言い張って彼女のLINEのIDをせがんだ。メモに記された彼女のLINEのIDが本物かどうか、電源が入らない自分のスマホでは入力をして試すことができなかったけれど、出鱈目のIDだったらそれはそれで仕方ないなと思い、再度彼女に礼を言って不慣れなマンションを出た。辺りはすっかり明るくなっている。新宿駅で電車に乗って、自宅のある八王子までは行かず、荻窪で下車をする。昨日のLINEを返していないこともあるし、スマホの充電をさせてもらおうと衣里の家に向かった。玄関のチャイムを鳴らすと、いつもと同じように応答がないまま衣里が扉を開ける。だから、直ぐに開けるなって……と言いかけた時、衣里の違和感に気が付いた。ショートパンツに薄いキャミソールといういで立ちの衣里は、自分の訪問に明らかに動揺をしていた。バストトップの形がキャミソールに浮かび上がっているのを見て、勢いよく玄関を開けると、男物の革靴が玄関に置いてあるのが見える。乱暴にスニーカーを脱いでリビングまで小走りをする自分の腕を掴む衣里は、しきりに、ちょっと待ってと言っていた。リビングの扉を開けると、ボクサーパンツ姿の男が掛け違ったシャツのボタンを必死で留めているところだった。ハッという短い笑いが漏れる。違うの、これは、と半狂乱で泣き叫ぶ衣里に、来週の実家訪問、どうする? と問うと、今度はごめんなさいごめんなさいと繰り返し始めた。そうしているうちに雑に衣服を身に着けて部屋から出ていく男に対しても、ごめんなさいと衣里は叫んで、その場に崩れ落ちた。しゃくりあげる衣里を冷めた目で見ていると、だって、最近夏樹、どんどん冷たくなるしとか、会議の資料作りが終わらなくて、うちで一緒に手伝ってもらってるうちに向こうから迫られて仕方なくとか、ありきたりな言い訳が絞り出されるのを暫くの間聞いていたが、この時間も無駄だなと判断して、だから、玄関を開ける時チェーンはかけておけって言っただろうと吐き捨てて自分も部屋を出た。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?