アイスクリームは腐らない 6

―百合乃―

 誤ファックスの送信先の家は都内ではあったものの、北の外れに位置する町で、現地まで回収しに行くにはなかなか時間のかかる場所だった。破産者の通帳の写しってハイセンシティブな個人情報だから、取りに行かないわけにもいかないと言って現地に赴いたボス弁も、本心では面倒臭いと思っていたに違いない。事務所に戻ってきたボス弁が、案件ファイルが山積みになっているデスクに着く様子を、同じように案件ファイルが山積みになっている自分のデスクから、山積みの案件ファイル越しに窺っていた。こんな時に有給休暇の申し出をするのはタイミングが悪過ぎることなんて重々承知だったけれど、それでも言い出さないわけにはいかないと腹を括って自席を立ち、彼のパーテーションをノックした。
「先生、今回の誤送信の件、本当に申し訳ありませんでした。ご足労をおかけしました」
「うん。無事に回収できたから、これはミスの報告書と一緒にファイリングしておいて」
「承知いたしました。それで、重ね重ねで大変申し訳ないのですが、実は島根に住む母が肺炎に罹ったと兄から連絡がありまして。あまり容体が良くないらしく、明日有給をいただければと……。金土日で帰省して、月曜日には出勤できたらと思っております」
 一瞬怪訝そうな顔をしたボス弁は、直ぐに鼻から短く息を吐くと、顔を緩めて、それは大変だね、直ぐに帰った方が良いよ。今日ももう上がって大丈夫だからと穏やかに言った。今日は通常通り定時まで勤務させていただきます。ただ、残業はちょっと難しいので、急ぎの案件がありましたら早めに回していただけたら助かります、と私が言うと、何か急ぎの件が発生したら、それはもう自分の方で対応するから、今手元にある案件の処理だけしてくれたら上がってくれて大丈夫だよと返される。ありがとうございますと言いボス弁のデスクから離れたが、自分もボス弁も、顔に浮かぶ疲労感を隠し切ることはできなかった。ただでさえ案件処理が溜まっている中で、イレギュラーの外出が入ったうえに、主任となっている事務員の急な有給とか、どう考えても仕事回らないでしょと彼は思っていただろうけど、浅見さんに仕事を投げてばかりで、案件の事務作業について何もわかっていないボス弁が単独でできる仕事なんて実は限られているし、結局来週の自分がパンクしながら処理しなきゃいけなくなることは目に見えているし、そもそもボス弁と浅見さんが拗れなければこんなに案件が滞留することもなかったし、浅見さんがいてくれたら誰かが急な休みを取った時でも彼女が全部カバーしてくれたのにと私は私で思いながら自席へと戻った。斜め向かいのデスクに座る後藤さんにも事情を話し、明日は自分が不在だけど、基本的に案件の処理はせずに、全部月曜日に回してくれて良いこと、電話対応と来客対応だけをお願いしたいこと、何かあったらLINEをくれたら直ぐに指示を出すことを伝え、暗に「余計なことはしないでね」とプレッシャーをかける。このタイミングでまたミスを起こすわけにはいかない。
 定時五分前から身の回りの片づけを始め、定時ぴったりにタイムカードを切ると、お先に失礼しますと全体に声を掛けて職場をあとにした。兄からのLINEを確認して直ぐに、正人に母の容体についてLINEを送ったけれど、現時点まで既読にはなっていない。今日は仕事のはずだけど、嘱託なんだし、ちょっとくらいスマホを弄るタイミングとかあるでしょと苛々しながら帰宅すると、既に正人は帰宅をしていて、ダイニングテーブルに座りながらぼうっとテレビを見ていた。舌打ちをしながらLINE見た? と正人に訊ねると、今やっと私の存在に気付いたかのような正人は、ハッとした様子で、ああ、うん、とだけ言った。妻の親が危篤状態かもっていうのにそれだけ? と思いながらも、言い争いをするのはあとで良いと思い直し、キャリーケースに三日分の衣服や常備薬、スキンケア用品と、念のための喪服を詰め込んだ。ちょっと実家に帰るから。日曜日の夜には戻ってくるつもりだけど、戻れなくなったらLINEする、と正人に告げると、ああ、うん、と座ったままでの生返事が帰ってきた。

 コロナ禍もあって、五年ぶりとなってしまった帰省は、地元に対して懐かしさというより違和感を強く覚えた。近所の商店街は閉店となった店も多く、シャッター街化が進んでおり、この町に住む母と兄夫婦はどこで買い物を済ませているんだろうかと不思議に思う。バスに揺られて市内で唯一の総合病院へ向かい、ナースステーションで木澤千代の病室は? と訊ねた。五〇一号室ですよと簡素に答える看護師はそれほど忙しそうにも見えないのに酷く愛想がなかった。
 五〇一号室の病室は六人部屋で、入って左側、一番奥のベッドに母はいた。老けたな、と思った。五年でこんなにも老けるものだろうか、とショックを隠し切れなかった。重い農業用具を担いで歩いていたたくましい腕は三分の一程度の細さとなり、顔もこけ、肌のいたるところが粉を吹いて乾燥していた。それでも、私の姿を認めるなり、元気なの? と声を掛ける母の声は、昔のままに感じる。元気だよ、なかなか帰れなくてごめん。東京はずっとコロナの感染者も多かったから、などど言い訳を連ねたあと、今の職場に転職してからは色々と安定して働いている、正人とも上手くやっているなどの嘘をついて、また明日来るねと話し、先に病院に来ていた兄夫婦の車に同乗させてもらって実家へと帰宅した。
 元々私が使用していた部屋は今は兄嫁の桃花さんが使っているので、仕方なく客間に荷物を下ろす。ちょっと埃っぽくてごめんなさい、昨日、お掃除とかお布団干しとかしたんですけどと桃花さんが言い、いえ、大丈夫ですよ、と返すも、実際、自分の喘息が反応するくらいに部屋は埃っぽかった。客間だけでなく、リビングの棚にも綿埃がたまり、和室の畳はささくれ立っていて、近くで見るとダニも繁殖しているようだった。キッチンの隅にはゴキブリの糞らしき黒い物体が転がっているのを見つけたので、今日は私が二人にご馳走するからと言い、夕飯はロードサイドにある蕎麦屋まで兄に車を出してもらった。一番風呂をどうぞと桃花さんに勧められたものの、風呂場もいたるところに赤カビが生えていて、踏むべき場所を慎重に選びながら、簡単にシャワーだけを済ませた。シャワーを浴びている間に客間に敷かれたカビ臭い布団に腰を下ろしてLINEを確認すると、ボス弁から「田中さんの画像資料ってどこにあったっけ?」とメッセージが来ていたので、「データですと、システムの、田中さんのフォルダにあります。ハードでしたら案件ファイルの原本袋の中にCD-Rが」と返した時、襖が開いて兄がちょっと良いかと声を掛け、布団から少し離れた畳の上に腰を下ろす。
「悪いな。わざわざ来てもらって。仕事、大丈夫だったか?」
「うん。でも、実は今ベテランの事務員さんが抜けちゃったタイミングで、忙しくもあるんだよね。だから、日曜日には帰るつもりでいるよ」
「そうか。まあ母さんもだいぶ落ち着いてきたしな。今回はちょっと風邪を拗らせて肺炎になっちゃったけど、もうそんなに心配はいらないって医者も言ってた。経過観察をして、来週には退院できるらしい」
「そうなんだ。なら良かった。けど、母さんにとってここの環境ってあんまり良くないんじゃない? 家も古いし、カビとか汚いところも多いし。私も喘息持ちだからわかるんだけど、呼吸器に結構悪影響ありそうだなと思って。桃花さん、家のことあんまりできないくらい忙しいの?」
「え? は? この家が汚いって言ってるの? 桃花はよくやってくれてるよ。パートをしながら母さんの面倒も看て、この家のこともよくやってくれてる。何年もこの家のことを放ったらかしにしてきたお前に文句を言われる筋合いはないな」
「でも実際に汚いじゃん、この家。桃花さんだって色々大変なら、もうこの家は売って、母さんには綺麗な施設に入ってもらって、兄さんたちも新しくマンションとかに住む方が合理的だし、その方がそれぞれにとっても良いんじゃないの? 私だって東京での生活があるし、コロナとかまたどうなるかわかんないから、そんなに頻繁にこっちにも帰ってこれないよ」
 なにが東京での生活だよ。彼氏とも籍も入れない状態のままで。こっちで周りからどう言われているのか知ってるのかよ、と言う兄の言葉に、カッとして枕を襖に投げつけた。埃が舞い上がる中で喘鳴を漏らしながら、過呼吸気味に、田舎の人は頭が昭和から進化しないから嫌だわと叫んだ。兄は立ち上がって客間から出ていくと、後ろ手でバンと力任せに襖を閉めた。古い家が軋む音がした。
 翌日は、家から徒歩二十分のところにあるコンビニまで朝食を買いに行った。あの不衛生なキッチンから生み出される料理を口にすることを考えただけで吐き気がした。荷物の入ったキャリーケースを引いて野道を歩いたので、コンビニに着く頃には既に足がくたくたとなり、病院まではタクシーで行こうと決意するも、辺りを見渡しても流れのタクシーは一切走っておらず、仕方なくタクシーアプリを使って送迎の依頼をしたが、それも配車まで三十分はかかった。病室でコンビニのおにぎりを頬張りながら、古い一軒家よりマンションや施設の方が設備も良いしメンテナンスも楽なこと、金銭の管理とかが不安なら将来的に私が後見人になっても良いこと、後見人選任の手続なら勤め先の法律事務所でも簡単にできること、もし兄の言動が威圧的で不安なこととかがあったら、母さんが東京に来て、私たちと一緒に住むこともできること、それを、きっと、正人も反対しないことなどを母に話したが、母はずっと苦笑いをして聞いているだけだった。コロナとかインフルとか、まだ色々どうなるかわかんないけど、これからはもう少し帰って、家の掃除とかするねという私の締めの言葉にも、母は曖昧な返事をしただけで、曖昧な笑顔のままの母と別れ、予定を前倒しにして、兄夫婦には挨拶をせずに帰路についた。さっさと帰りたいとは思いつつ、木曜日に正人に送ったLINEが現時点でも未読でもあることに苛立ちを覚え、帰りは飛行機ではなく、列車を乗り継ぎ、時間をかけて東京まで帰ることにした。
 
 マンションについたのは深夜だったにもかかわらず、自宅の電気はつけっぱなしだった。何度言っても電気の消し忘れが直らないなあという不満を頭に浮かべながら部屋に入ると、正人はダイニングテーブルに突っ伏したままで眠っていた。わざとらしいため息をつきながら、正人、寝るならちゃんとベッドで寝て、と肩を揺するも、その身体は人形のように柔らかく揺れるだけで反応がない。
 正人!? 正人!! 両手で肩を掴んで身体を引き起こすと、青白い正人の顔は半分目が開き、口からはだらりと涎が垂れていた。片腕で正人を抱き寄せたまま、ショルダーバックからスマホを取り出して119番通報をする。消防ですか? 救急ですか? という指令員の問いかけに対し、あの、帰ったら彼が家で倒れていて、意識がないみたいで、と半狂乱のままに叫んだ。大丈夫ですよ、落ち着いてください、直ぐに向かいますからねという指令員の言葉に、お願いします、お願いします、と繰り返しながら、正人を抱きしめた。誰に対し、何に願っているのか、自分でもよく分からなかった。
 
 点滴を繋がれた正人は、幾分顔色は良くなったものの、まだ意識は戻っていなかった。医者が言うには意識がないというよりは、眠っている状態に近いので、落ち着いて、もう少し様子を見ましょうとの話だった。明け方に近くなり、正人の姉の真美さんが病院に到着すると、臥せる正人を見て、どうして……と絶句した。二人で談話室に移動し、缶コーヒーを二つ購入すると、一つを真美さんに渡して椅子に腰かける。
「栄養不足で、一時的な意識障害が起こったのだろうと言われました。最近は私も仕事が忙しくて、一緒に食事をとれていなかったんですけど、一人で食べているものだと思っていて、まさか全然食べていなかったなんて……。あの、それで、医者が言うには、今回の栄養失調は、今後ちゃんと食事の管理をすれば良くなっていくだろうってことだったんですけど、今回の救急搬送で色んな検査をした結果、脳の萎縮が見られる言われました。アルツハイマー型認知症が進んでいるとのことです」
 カチャっという缶コーヒーの開栓の音がして、一口分を飲んだ後、真美さんは大きくため息をついた。
「しょうがない……。しょうがないよ。百合乃さんも仕事で忙しくしてただろうし、うちは早死の家系で、両親も早くに病死しているから、正人にもなんらかの発病があってもおかしくないって思ってたしね。ただ、私ももう七十近いし、自分の世話で手いっぱいで、どれだけ正人のことサポートできるかもわからない。百合乃さんはどうするの? これからの正人とのこと、どうしたい? 籍も入っていないんだし、正人のことは福祉の人に任せて、別の誰かと、別の人生を歩むって道もあるよ。私も、それを否定しない」
 以前の正人を彷彿とさせる雰囲気で、私を責めるでもなく、優しく説く真美さんに、ちょっと、まだわからないですと答えて、ぬるくなっていく缶コーヒーを握り締めた。

 帰宅すると、つけっぱなしになっていたテレビを消した。倒れたままのキャリーケースを起こす微細な音だけが部屋の中を木霊する。いつから? いつから正人はおかしかったのか。仕事はちゃんとできていたのだろうか。職場でも食事を取っていなかったのか。
 冷蔵庫を開けると、数日前に自分が作り置きしたおかずのタッパーがそのままの形で全て残されていて、耐えきれずその場にしゃがみ込み、嗚咽を漏らした。どうして? いつから私の人生は狂い始めた? どこからやり直せば上手くいく? 地元から上京しなければ家族との関係もおかしくならなかった? あの損保会社に就職しなければ正人と恋愛関係にならなかった? 出会っていても、歳の差カップルなんてと思いとどまっていれば良かった? 下世話な噂話に耐えながらあの会社で勤め続ければ良かった? 今の法律事務所に転職しなければ良かった? 浅見さんに、あのボス弁はやめておいた方が良いよと伝えていたら彼女をあの職場に引き留めておくことができた? そしたら私にももっと余裕があって、家のことも仕事も上手くやれた? どこからやり直せば良い? どこまで戻れば今度は上手くやれる? 
 独りきりの慟哭に共鳴するように、開けっ放しの冷蔵庫からはアラート音が鳴り響いていた。

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