アイスクリームは腐らない 7 終

―聖奈―

 ギャラ、振り込みはできないんですかね? 一々取りに来るのも面倒臭いんですが、とエキストラ事務所の社長に聞くと、振り込み手数料が勿体ないからねと社長は言い、手に持っていた二つの紙コップの内一つを私に手渡す。礼を言って受け取り、口をつけると、緑茶のほのかな渋みが口の中に広がった。ごめんね、待たせて。今ちょうど経理が銀行に出かけちゃっててと続け、社長はテーブルを挟んで私の向かいに座った。
「それにこの仕事さ、飛んじゃう子も結構多いじゃん? エキストラなんて、顔や名前を認知されるわけじゃないし、撮影スタッフともその日その場限りの関係だし、早朝集合とかも多いし。当日になって行くの面倒臭くなって、何の連絡もなくとんずらされることも相当数あるわけ。そういう子って、大抵そのあと音信不通になるんだけど、その子が既に稼働した分の未払いのギャラどうしようってなることも多いんだよ。振込口座が間違ってたり、ギャラ明細の送付先も変わってたりして、手続きしたくてもできないことも多い。んで、こっちがなんとかして連絡取ろうにも、向こうは完全無視だからね。お手上げだし、ずっと債務が残り続ける状態にもなって困る。だから手渡し制にして、取りに来なかった子の未払いのギャラは一年で消滅って規約にしてるの」
 社長の説明を聞きながら、それって法律的にはオッケーなのかとぼんやり思いつつ、へえ、と相槌を打った。
「だから、浅見さんみたいな人、本当に助かるんだよ。当欠も遅刻も一切ないし、報連相もしっかりしてるし、新しく入ったエキストラの子の面倒も見てくれるし、現場の意図を汲んで動いてくれるし。現場からも、時々浅見さんへのお褒めの言葉が入るんだよ。うちの社員もみんな、浅見さんのことはすごい信用してるしね」
「そうなんですか。初めて聞きました。現場の人、ただのエキストラのことなんか、何も見てないと思ってたから」
「そんなことないよ。見てる人は見てるよ」
「ちゃんと見ていてこの仕打ちなのか、と思うような、非人道的な現場もありますけどね。私は、急に飛んじゃう人たちの気持ちも分かります。エキストラって、現場でのヒエラルキーは一番下じゃないですか。メインやサブキャストの人たちと同じように扱ってほしいとは、私も端から思ってません。でも、やっぱ、物みたいに扱われるのは結構辛いんですよね。こちらに全く非がないのに監督から怒鳴られたり、スタッフに無視されたりとかもしんどいです。現場に出るたびに、あー、今日もゴリゴリに自尊心削られたなーって思います。そうやって自分のことを物や奴隷みたいに扱う人たちと、もう関わりたくないなって思って消えていく人の方が健全な思考回路を持っているようにさえ思います。私は、蔑ろにされることに慣れてしまっているから、こうやってなんとか続けていられますけど……」
 まあ、あんまり酷い現場があったらこっちからも制作側に言うように努力するからさ、またよろしくね、と言って席を立った社長と入れ替えに、銀行から戻ってきた経理担当者が茶封筒を持って駆け寄って来る。先月失われた自分の自尊心と引き換えに、三万二千円のギャラを受け取り、エキストラ事務所をあとにした。
 エレベーターの到着を待っている間に、イヤホンを耳にはめ込み、曲を選ぼうとスマホを立ち上げると、同時に二通のLINEが届いた。一通は、「今から三十分後に自宅に伺っても良いですか?」という夏樹君からのLINE。もう一通は元上司である弁護士からだった。法律事務所を辞める時、できればもう私には関わらないでほしいと告げていたにもかかわらず届いたボス弁からのそのLINEは、画面を何回スクロールしたのかも分からない程の量だった。
「ご無沙汰しております。こちらから連絡することは控えようと思っておりましたが、こうやってご連絡しましたこと、お許しください。三日前、木澤さんが亡くなりました。縊死でした。先週の木曜日、木澤さんから、お母さんの体調が良ろしくないとのお話があり、翌日の金曜日は有給を取ってもらってご実家に帰省されていました。月曜日には出勤予定だったところ、出勤されず、LINEを送るも未読のままで、携帯や自宅の番号に電話をしてみてもコールのみで対応がされませんでした。聖奈もよく知っていると思うけど、木澤さんは無断欠勤をするタイプの人ではないので、その時点で何かあったのかと考えました。ご実家でお母さんの容体が急変したのかなとも思いましたが、それなら何かしらの連絡をくれる気がしていたので、その時点ではまだ何とも判断がつかない状況でした。翌日の火曜日も木澤さんは出勤されなかったので、後藤さんに木澤さんのマンションまで行ってもらい、管理人に事情を話しました。管理人の方で把握していた木澤さんの緊急連絡先はお兄さんになっていて、管理人さんがお電話をされたそうなんだけど、金曜日に実家へ戻ってきたけど、翌日には東京に帰りましたよとのことでした。合鍵を使って木澤さんのお部屋の状態を確認することについてもお兄さんから同意が取れたので、管理人さんと後藤さんで木澤さんのご自宅に入ったところ、カーテンレールで首を吊っていたそうです。その場で管理人さんが救急車を呼びましたが、搬送先の病院で死亡が確認されました。その後は警察の現場検証等が入ったので自分もよく分からないんですが、亡くなった当時、木澤さんはお家に一人だったようです。同居していると言っていた内縁の旦那さんは今入院中らしいと、警察から聞きました。どういった病気なのかはよく分かりません。今朝方、木澤さんのお兄さんから連絡がありましたが、お母さんの退院手続きもあり、まだ木澤さんの通夜・葬儀については未定とのことでした。こちらの日程等は分かり次第聖奈にもお伝えします。縊死の現場を目撃して、後藤さんもだいぶショックを受けていた様子だったんだけど、先ほど、彼女から退職願いが出されました。なんとか頑張ってはもらえないかと打診はしましたが、メンタルがしんどくて、もう出勤することはできないとのお話でした。正直、自分も相当やられています。都合の良いことを言っているのは百も承知ですが、助けてはもらえないでしょうか」
 自分が呼び出したエレベーターはエキストラ事務所が入っているビルの六階に停まり、誰も人が乗らないまま扉が閉まると一階まで戻って行った。スクロールが最後まで来た時、追加でもう一通、夏樹君からのLINEが届いた。
「この前のお礼に、アイスを大量に買ってお伺いします」

 エレベーターを待っている間に受け取ったLINEの通り、三十分後きっかりに夏樹君はうちにやって来た。玄関で広げたレジ袋の中には、宣言通り様々なアイスが十数個詰め込まれている。苦笑いをしてキッチンに通すと、とりあえず一個選んでくださいと言う夏樹君に従ってピノを選び出し、夏樹君はハーゲンダッツのバニラを手に取って、残りを袋ごと冷凍庫にしまった。狭い二人掛けのソファーに座り、見て、星ピノが入っているとか、俺のは幸せのハーゲンダッツですとか言い合いながら、それぞれ一個目のアイスを平らげる。次はどれが良いですかと聞く夏樹君に何でも良いよと返すと、冷凍庫を漁った夏樹君は、私用にハーゲンダッツのチョコクッキー、自分用にジャイアントコーンを持って戻ってきた。二個目のアイスが食べ終わる頃にはすっかり身体が冷え切っていたので部屋の冷房を切る。この前、聖奈さん、やってもやらなくてもどっちでも良いって言っていたけど、やっても良いですかと聞く夏樹君に、いいよと返して、セックスをした。
「聖奈さん、弁護士になったら僕のこと事務員として雇ってくれませんか?」
「なんで? 俳優は辞めちゃうの?」
「なんかもう無理だなって思って。色々」
「夏樹君を雇ったらどんなメリットがある?」
「語学はできます。英語と中国語。あと、人権無視の労働環境にも耐性があります。あまりにも厳しい環境だと辞めちゃうかもしれないけど。今みたいに」
「自分の法律事務所がエキストラ以上に過酷な労働環境とかになったら嫌だなあ」
「聖奈さんが弁護士になったら、一緒にエキストラの不遇について訴えを起こしましょうよ」
 それはどんな訴えの利益があるのかな、と言いながら、裸のまま冷凍庫に向かった。次はどのアイスを選ぼうか。それ以外のことは、何も考えたくなかった。

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