帰省
誰かに呼ばれたような気がして、はっと目を醒ました。
辺りを見回すと、先程と特に変わった様子は無い。殆ど無人の車内に、高速で線路を駆ける列車の車輪の音が響き渡っている。
―――ここは一体何処だ?
ふと嫌な予感に囚われた。車窓に映る緑は何の風景も見せてはくれない。慌てて背後の窓を振り返ったが、窓の外には木々の枝がひしめいているだけで、五月の光を受けた緑の濃い葉以外は何も見えなかった。
「………」
体を元に戻しながら、私は嘆息した。どうやら寝過ごしたらしい。いくら久しぶりに帰る実家とはいえ、中高六年間を通学した車窓の風景がわからない筈が無い。ターミナル駅から実家までの風景なら、例え森の中としても数秒見れば判別がつく自信があった。
参ったなと頭を掻き、これからの算段を忙しく考え始めたちょうどその時、車内放送が入った。
“……本日もJR西日本をご利用頂きまして、誠にありがとうございます。この列車は、芸備線・三次行きワンマンカーです――”
普段は車掌が直接行う車内放送だが、ワンマンカー、つまり車掌の常務していない列車ではテープに吹き込まれた自動音声である。ディーゼル車・単線・離合・ワンマンカー―――東京の人にこの感覚はわからないだろうな、と思いながら私は、やっと故郷に帰ってきた実感を得ていた。
“―――まもなく西三次、西三次。運賃・切符は運転席後ろの運賃入れにお入れください。西三次駅では、後ろ側の車両のドアは開きません。前側の車両よりお降りください。まもなく――”
「……なんだって!?」
私は思わず声に出した。西三次といえば、殆ど終点に近い。20駅近く乗り過ごした計算になる。今更のように腕時計に目をやると、本当ならとっくに実家に着いている時刻だった。どっと疲労に襲われる。
と、列車が駅に着いた。重たい車両の音が消えて、ドアが息をつきながらガタガタと開く。あまりにも遠くに来てしまったという事実を突きつけられた私は咄嗟に鞄をまとめ、その単線のホームに降り立った。
ため息をつくような音を漂わせながら、黄色のドアが背後で音をたてて閉まる。ゆっくりと動き出したエンジン音を聞きながら―――私は単線のホームに立ち尽くした。列車の音が遠ざかり、残されたのは底抜けの日差しと木々のざわめき。
今更になってから、どうして降りてしまったんだろうと思った。このままもう1駅乗っていれば終点の少し大きな駅へ着く。そこなら売店やコンビニもあっただろうし、何より公衆電話があった筈だ。
携帯電話でさえ、圏外。―――つまり、家族に連絡を取って迎えに来てもらうことさえ出来ない。
おとなしく折り返しの列車を待つしかないと肚をくくり、半分自棄になりながら簡素な駅舎を探すと、面白いほど白さの目立つ時刻表が発見できた。
次の列車――16時41分。
現在時刻を見ると、13時56分。
時刻表にぽつんぽつんと並ぶ数字は忘れられたパズルみたいだな、とぼんやり考えた。
大幅に乗り越したものの無人駅で1000円近い代金を払う気にもなれず、ふらりと駅を歩き出す。目の前には小さなロータリーがあって、そこから先は畑が広がっていた。その向こうには、お椀を伏せたような小山。
中国山地の合間の、典型的な田舎の風景だ。
良い写真が撮れそうだと思ったが、生憎使い切ったばかりで替えのフィルムを持っていないし、それを売っているような売店も無い。とりあえず自販機でペットボトルのお茶を買い、いくらかを一気に喉に通した。
……静かだ。
3時間、一体何をすれば良いのだろうと考えながら、ぶらり畑の方に歩いていく。
「あんたぁ、何しとんね」
背後から、いきなり声をかけられた。
「・・・・・はい?」
振り返ると、そこに老婆が立っていた。真っ黒な目をぎょろりとさせて、聞き取りにくいしわがれ声で言う。
「わしゃあの、今日は・・・汽車ん乗って広島まで行こうっちゅうて思ったんだが、今行ってしもうたわ」
「えっと……何が行ったんですか?」
「汽車じゃいや。ほれ、今黄色いのが行ってしもうたろうが」
「あ、あれ三次行きです」
「あ?」
「今行っちゃったの三次行きなんで、広島行きじゃないです」
老婆はしばらく考えるような様子をみせたが、再び駄々をこねるように言った。
「・・・わしゃぁ広島に行きたいんじゃが、汽車が行ってしもうたんじゃ」
「じゃけえ、」
思わず方言が出た。
「じゃけぇ、今行ったんは三次行きなんよ。おばあちゃんが乗りたかったんは広島行きじゃろ?広島行きなら4時41分に来るけぇ、それに乗ればいいんよ」
ものすごい違和感。自分の口が方言に追いついていない。自分はこんなにも離れてしまったのかと痛かった。
「あぁ・・・そうか」
わかったのかなと少し安心したところ、老婆から思わぬ一言が出た。
「あんたもそれに乗るんじゃね?」
「え、あ……はい」
咄嗟にどの言葉を喋ったら良いかわからず、返事につまった。広島弁?標準語?まさか英語というわけにはいくまいし。
「ほしたら、また出直して来るかいな」
「えぇ……」
曖昧な笑顔でうなずいた。どうやら納得してくれたらしい。流れはよくわからなかったが、とりあえずほっとした。
老婆の後姿をぼんやり見送っていると、ふと目の端に不思議なものが映った。
―――郵便ポスト。
別にポスト自体は不思議でも何でもない。問題なのはその場所だ。
畑の真ん中にぽつんと、真っ赤な郵便ポスト。
私は惹きよせられるように、ふらふらと畑に足を踏み入れる。
バイクの跡が無いから、郵便屋さんも歩いて取りに行くのだろう。
「・・・ちゃんとしたポストじゃん」
どこからどう見ても普通のポスト。頭でっかちで四角くて口が二つ。後ろには回収時刻が書いた紙だって貼ってある。―――といっても、日に一度しか受け取りに来ないようだったが。
小柄なそれを撫で回しながら、私は周囲を見渡す。畑の広がる少し遠くに、ついさっき私の降り立った駅が見えた。
故郷が遠い。・・・唐突にそんなことを思った。
私とあの駅もこんなに遠いし、そこから列車で1時間ほどかけて戻る実家はもっと遠い。今暮らしている首都圏のアパートなど、空の彼方だ。
意味もなくため息をついた。ポストの根元に背をもたせかけて座り、足を畑に投げ出す。野菜を踏みつけないよう、慎重に。
広がる青い空。心地よい風に吹かれて、目を閉じる。
ふと思いついて、鞄の中を探った。あった、あった。使いそびれた古い官製はがきを、手帳の中から抜き取る。
思い切ってペンを出し、宛先と差出人を書いてみた。差出人は私の実家。宛先は東京のアパート。裏には何を書こうか悩んだが、書かなかった。
しばらく眺めた末に、投函。
ポストの左の口にそっと手を差し入れる。人差し指と中指に挟まれた官製はがきが1枚、見えないポストの中で頼りなく揺れる。
手を、放した。
「―――これで良し、と」
ポストからそっと手を引き抜きながらつぶやく。
帰省から戻った私は、アパートに届いたこのはがきを見て何を思うのだろう。
東京には全く違う時間が流れていて、そこにいる私もおそらく別の人間だ。
服の土を払って立ち上がり、駅に向かって歩き出す。時間はまだまだ沢山あるが、駅のベンチで一人、思い出語りでもしていよう。たまにはぼーっと過ごしたって良い。
畑を出たところで、少し名残惜しくなって振り返った。
一本足の郵便ポストが、畑の真ん中にちょこんと立っていた。
*この文章は2005年6月6日に書かれたものです。
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