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「大丈夫だよ」という言葉は、綿菓子のように甘くて儚い。

 あと二か月もすれば、溢れる「大丈夫」の言葉にイライラする春がまたやって来る。

─── 今は苦しくても大丈夫。心配しなくても大丈夫。いつか必ず良くなるから。自分を信じてあげよう。(私も大丈夫だったんだから、あなたも大丈夫)

(そんな訳あるか、大丈夫か大丈夫じゃないかなんて、あんたが決めるな。
私の苦しみは私だけのものだ。私が乗り越える道のりだ。安易に大丈夫なんて言葉を押し付けるな。私の今や過去も知らない癖に、私の未来の責任も取れない癖に、あなたの大丈夫を押し付けるな)

 大丈夫という言葉にぶつかるたびに傷つけられた気がする私は、被害者意識が強すぎるのだろう。相手が善意で言っているのが分かるだけに、それを受け取れない自分の在り方にまた傷が深くなる。

 言葉は無力だと信じているくせに私は、誰かの言葉に躓いてばかりいる。

大丈夫だよと言われる度に、大丈夫じゃないよねと言われている気がした。


 あれは、娘が小学校に通えなくなりはじめた2年生の頃。週末、遊びに行った実家で、義母が突然娘に向かって言ったのだ。「Mちゃんはね、大丈夫なんだよ。Mちゃんが良い子な事を祖母ちゃんは知ってるからね。だから大丈夫なんだよ」

 義母の言葉に、娘はへらりと笑った。

それから何事もなかったかのように戻した視線の先で、テレビが映し出していたのはドラえもんだったろうか名探偵コナンだたろうか。くっきりとしたアニメの画面を眺めなら、私はたぶん怒っていた。
軽々しく大丈夫という言葉を吐く義母に。
言い返せない私自身に。

* *

 義母が「大丈夫だよ」と言うほどに、娘が「励まされなければいけないほど可哀そうな子」と規定される。それは同時に母親である私自身を「その哀れな子供を救えずにいる無能な母親」「励まさなければいけない可哀そうな母娘の片割れ」にするのだ。
そのことに一体「大丈夫」と軽々しく口にする人は気づいているのだろうかと、ふんわりとした「大丈夫」にくるまれるたびに思う。
 
ああなんて、私って面倒くさいんだろう。
自分の抱えた傷を後生大事にして、優しくしようとしてくれる人の手を振り払って。自分一人で立ってるみたいな顔をしたがって。

だけど、私にとってはこの傷ついた気持ちこそが私で、誰かに慰めてもらいたいとは思わないし、偽りの希望なんて与えてもらいたいとも思わない。
大丈夫じゃないまま、大丈夫という言葉に傷つく私のまま、歩いていたいのだ。

いつかの私だったあなたへ
大丈夫、絶対大丈夫。いつか大丈夫になるから。
(だって私は大丈夫だったから)

そんな言葉があふれる春を、私はやっぱり好きになれない。


 










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