明日全てを忘れてしまったとしても、その経験は失われたりしないから。
旅行に出て、美しい景色を眺めて。
「せっかく来たんだから」とカメラを向ける。
「せっかくだから、忘れないように」と動画を撮る。
そうして、
目の前にある景色から、
隣にいる人との会話から、
今感じていること、今目の前で息づく世界から、
私のうちにあるあらゆる感覚から、遠ざかってしまう。
そんな私になんだか辟易して、カメラを降ろしてみた。
週末、出かけた京都旅行でのこと。
* *
目の前には、鮮やかに色づく世界が在る。
木々の気配。檜皮葺の屋根のまろやかな曲線。
水の音。周りの人々のざわめき。隣で何かを想う、娘の息遣い。
写真にも動画にも収まりきらない、言葉にもできない、沢山のものがその一瞬のうちにあった。
忘れてしまう事は、不幸だろうか。
思い出さない事は、悪い事だろうか。
例えこれっきり一度も思い出さなかったとしても、
今、目に見えるその世界を味わったこと、
今、隣にいる人の息遣いを感じたこと、
今、自分の身体が感じていたことは、
失われたりはしないのに。
「せっかく」ってなんだろう?
「せっかく」って言いたくなる時、何を損したくないのだろう?
その「損」は、本当だろうか?
「いつか思い出すために」というその思考のために、逆に失っているものがあったりはしないだろうか。
写真を見なければ思い出せないほどの記憶なら、それは忘れてしまっても人生には一向に差し支えの無いものじゃないのか。
過ごした濃密な時間は、
震えるほど美しかったあの景色は、
心と身体のどこかに刻まれていて、
明日からのわたしを、生かしてくれるのだもの。
またこんな風に心を震わせるために、頑張ろうと思わせてくれるのだもの。
* *
本当のほんとうに大切なことは、
今に注ぐこと、今この瞬間私が感じている世界を見落とさない事
じゃないのかな。
もっと今を楽しめるといいね。
今に安心して、注げる自分でいられると良いね。
そのためには、何が必要だろうか。
きっと、
私たちには何一つ永遠のものはなくて、
常に変わり続け、出会っては失い続ける刹那の存在だと、そう気付く事じゃないのかな。
どうせ、失われるものなのだから。
どうせ、全てはかりそめなのだから。
失ってしまう事を恐れるよりも、今この瞬間の出会いに全てを注ぎ込んで、潔く手を離したら良いんじゃないのかな。