見出し画像

「どちらも」と願う自分を置いておく。その罪悪感さえ、漏らさずに。

いよいよ決算作業から株主総会、年末調整、年明けの各種報告書作成と怒涛のように業務が集中する、年に一度の繁忙期がやってくる。

手書きの表をエクセルにしただけみたいな原始的な業務も随分と改革され、昔ほど残業をする必要は無くなった。
けれどこの時期になると思い出す。あの苦しかった日々。出口の見えないトンネルの中にいたような毎日の事を。

あの頃のわたしは「どちらも」を願ってはいけないと思っていた。
どちらも100大事にできないのなら、どちらかは諦めないといけないと思っていた。


だけど、諦めなくたっていいじゃないか。
100でなくても10ずつでも、注ぐことが出来るなら。それは愛ではないと、誰が決めたというのだ。

「どちらが大切?」って言うけど、明確に答えを出せる人がどんだけ居るっていうのさ。

まだ娘が保育園児だった頃は、一旦退社して娘をお迎えして、ジジババ宅に預けて会社へとんぼ返りして決算作業の続きをした事もあった。
長じて学童へ行くようになってからは、学童へのお迎えをジジババに頼んだこともあった。

で、言われるわけ。
「アナタがそんなに頑張らなきゃいけない仕事って何なの?」
「何でアナタが遅くまでやるの? 他の人だっているでしょ?
小さい娘の寂しさと仕事と、どっちが大事なの?って。


職場では職場で、保育園や学童のお迎えの時間ギリギリになると、気がそぞろになってチョンボばかり。  そして上司に言われるわけです。

「もっと真剣に仕事に向き合おうよ」
「子供の事はわかるけどさ、それは仕事とは別でしょ」


 ど う し ろ と ?


シングルでジジババ以外に頼る相手のいない私は、毎日心の中で恨み言を吐いていた。私が働かなければ明日の糧は手に入らない。けれど子供の寂しさも私でなければ埋められない。どちらかを選べと迫る人は、いったい私にどちらを捨てろと言うのだろう。

世界中、どこにも私の味方なんていない。
だれも私の必死さを理解してくれない。
泣きそうになりながら会社への夜道をドライブした事もあった。

* *

「どちらも」って望んじゃいけないと思っていた。
だけど自分の心をちゃんと見れば、答えは明らかだった。

私は、
娘の未来を守りたかった。
娘に笑顔でいて欲しかった。

それと同じくらい、
自分で働いて、自分の力を社会で生かして
自分たちの今の暮らしを守りたかった。


子供も、仕事も、どっちも大切で、どっちも切り捨てられなかった。

* *

今、改めてあの頃を振り返って思う。なんであんなに「どちらか」を選びきれない自分を責めていたんだろうって。

人生で、「どちらか」なんて選べない事なんて山ほどある。
そんなもの選べなくて当たり前じゃないか。たくさんの大切なものを抱えて、抱えて、それぞれの折り合いをつけて生きて行く。それで良かったじゃないか。

どっちも大切で、どちらも大切にしたくて、なのに大切にしきれなくて罪悪感を感じている自分をこそ、認めてあげればよかったのだ。



大切だから、捨てられない。
大切だから、100%注げない事で罪悪感が湧く。

それで良いのだ。
痛みは、大切なものがここにあるよというお知らせに過ぎないのだから。
その事実だけを心にとめて、その時その時に全力で注げばいい。

罪悪感を感じるほど、大切なものに出会えた事を喜びにしてみればいい。10だけでも注げた自分を、誇ってみればいい。


「どちらか」と切り捨てる事を急がずに、「どちらも」と望みを自分の中に置いておく。

沢山の「大切にしたい」が自分の中にある事を認めて、並べてみて、その時々に何を一番にするか選ぶ。折り合いをつける方法がないか考える。

全部に100じゃなくても、20だって10だって、その時できる範囲で大切にすれば良い。

そうやって折り合いをつけながら、みんな生きている。だからこそ、誰かが抱く痛みにも共感できるのだ。手を差し伸べたいと思えるのだ。

* *

「どちらも」と願う自分に降参してから、少しずつ私は変わったのだと思う。


「毎日遅くまで残業は出来ない。でも業務を放り出したくはない」
そう相談する事で、休日に娘を連れて出勤する事が許された。
誰もいないしんとした事務所の中、YouTubeを見る娘の隣で、積み上げられた年末調整の書類を片付けた。


「娘と一緒に休日出勤している」と知ったジジババは、お昼に合わせて会社の近くで外食しようと誘ってくれた。
「そのまま午後は娘を預かるから、あなたは仕事に戻りなさい」と何でもない事のように言われた時は、キツネにつままれたのかと思ったほどだ。


冷たい言葉を投げつけて私を絶望さえた上司もジジババも、それぞれの場所で心配してくれていただけだったのかもしれない。

ただ私が決められないから、助ける事すらできなかったのかもしれない。
今その場所で、何を大切にしたいのか。それを自分が決めなければ、何も動きはしないのだ。

* *

そんな日々を経たからこそ、思う。
痛みを感じたくないからって、手放す事ばかりを考えるのはもったいって。

どちらも、と言いたい自分を許してあげよう。
どちらにも100を注げない自分を責めるのをやめよう。
その痛みを、罪悪感を抱きながら、今この瞬間注げるだけを目の前に注いであげようよ。

大切なものがなければ、痛みすら感じないのだからさ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?