自信は求める限り決して手に入らない

自信とはありのままの自分を肯定できること、信じられることを言う。

故に自信は何かを求めると決して手に入らないものとなる、
何かを得なければならない、条件がなければ信じられない。

それ自体が自信がないことの何よりの証だからです。

本当の意味で自信がある人は主観的に自信のあるなしを自覚できない、
より正確に言えば自信の有無など考えずとも自分が進むべき道、
その道を歩き続けるという意志を持ち信じやるべきと思える。

それが自信があるという状態を言う。

逆に自信がないと考えることはもちろんあると考えることもまた、
根本的にはありのままの自分を信じていないからこその考え方。

ない状態を知っていてそれを埋めるための何かを得たから、
条件が揃っているから自信があると錯覚してるに過ぎないと考える。

その条件が何らかの理由で揺らげば自信も揺らぐでしょう。

加えて得たという感覚は相対的なもの。

例えばあることができるようになったから自信を得られたと考えたのなら、
自分以上にそれができる人間を目の当たりにすれば自信の条件は揺らぐ。

故に何かを得れば、何かができれば自信を持てると考える限り、
相対的な条件を前提とした基準を自信の根拠と考える限り。

自信を求める限り得ることはできない。

じゃあどうすれば得られるのかと考えるとそもそも自信とは、
得るものではなく与えられるものであると思う。

幼少期、無条件に両親等から愛される、誰かに受け入れられるという経験、
ただありのままの存在としてこの世界にいても良いんだという感覚。

とは言え必ずしも両親が子供を愛するとは限らない、
存在を否定するまではいかなくとも条件付きの愛しか与えられず、
自尊心や自己肯定感を奪い自信を持ちづらい状態にする場合もある。

人間社会ではそういう時のためのセーフティーネットの1つとして宗教、
神という存在は大きな役割を果たしてきたように思われます。

神や大いなる存在の下に全ての人は、存在は平等であると信じること、
偉大な存在の愛は無条件に注がれると信じることで精神を守ってきた。

特定の土地を持たず長きに渡りよそ者として放浪することになった、
ユダヤ人の宗教であるユダヤ教が神を父と呼ぶのはユダヤ民族として、
自信に満ちた精神性を保つのに必要だったからだと考えられる。

逆に現代日本が全体的に自信がない、自己肯定感が低いように見えるのは、
そういう無条件に受け止めてくれる何かが存在しないためでしょう。

日本は現存する世界最長の国であるという歴史を持っている、
物質的に世界でも稀に見る余裕がある、それを実現する力がある。

だけど、そういったものを信じる心は第二次世界大戦敗北後、
敗戦国として思想等が検閲削除されることで失われていった。

代わりに自由主義、人間は自らの責任で自らが進むべき道を定めるもの、
あるいは個人主義、個人としての権利こそもっとも尊ぶべきもの。

そのような価値観のみが最善であると信じ込まされてきた、
しかし人間個人の能力等など個人差はあれどたかが知れている。

現実においてどれだけ優れた人間も自らだけで自らを成り立たせられない、
誰かの、社会の、自然などの大きな力を借りなければ生きられない。

自覚的にかはともかく自分が矮小な存在であるとどこかの段階で知る、
だけど自由主義や個人主義、自分こそが中心であると考える限り、
それを認めることはできないでしょう。

自分が矮小な存在だと受け入れてしまえば全てが揺らぐからで、
揺らいだ時に逃げ場となる思想とは先に話したように、
現代の日本からは失われているからです。

現実は矮小なものだと突きつける、だけどそれを受け入れられない、
そんな精神的に極めて負荷のかかる状態を安定させるために、
条件付きの自信というものを求めることになるのでしょう。

しかし、これも先に話したように条件付きの自信は遅かれ早かれ揺らぐ、
揺らぎ定まらない自信を持つ、自己のまま何とか人生を歩んできた、
そんな人が増えてきたのが日本という国であったのだと考えます。

そうして揺らぐ人が大人となり家庭を築き子供を授かった時、
果たして無条件に子供を受け入れられるかと言えば、
大半の場合は難しかったのだと思う。

幼少期に受け入れられたと実感できないと後になって揺らぎやすくなる、
自信を持ちづらくなってだけど逃げ場はなくだましだましやっていき、
大人になってまたと悪循環に陥ってきたのだと思う。

正直、これをどうにかする特に激的な対処法は思いつかない、
一朝一夕でどうにかなる問題ではないでしょう。

自信のない人が後天的に本当の意味で自信を得るのはハードルが高い、
無条件で受け入れてくれる存在、あるいは信じられる存在を得ることは、
成長ししがらみが増えるほど難しくなっていくからです。

特に現代日本のように軸、土台となる思想等が揺らぐ状況ではなおさら。

それでも人は歩んでいかなければならない、
自信があろうがなかろうが生きるためにすべきことがある。

そのためにせめて、そういう厳しい状態で歩いているんだと自覚し、
歩けているだけでも結構すごいことだと思えるようになると良いと思う。

そしてもし、本当の意味で自信を与えてくれる存在に出会えたなら、
そのきっかけを決して見逃さないことも大事になるだろうというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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