葬送のフリーレンは第三の道を模索することに対する期待

アマプラで無料だったので遅まきながら葬送のフリーレンを見てみた。

最初の方はまあよくあるファンタジーか程度に流し見していたのですが、
有名な自害のシーンを見た後はこれは面白い作品だなと思ったのと同時に、
なぜこのアニメ、漫画がここまで人気となって世に広まったか。

まだアニメだけだしそのアニメも11話までしか見てないうえでですが、
その理由の一端を見た気がするのでここではそのことについてとりあえず、
自分の考えを一通りまとめてみたい。

なお、この記事の内容は11話まで見たこと前提で、
ある程度ネタバレあるので気をつけてください。

では、先に結論をお話するとこの作品は個人主義を突き詰めた魔族と、
魔王を失った残党でなお脅威である存在に繋がりで相対する人間。

そして両者の境界線の上でより良いバランスを模索するフリーレンが、
最終的にどのような答えを出すのかという期待を凝縮したと解釈しました。

と言うのも、まずこの作品において重要な概念は基本時間はパワーであり、
長命種であるエルフや魔族はこの世界において圧倒的強者であること。

逆に人間は魔王討伐を成し遂げた勇者一行などの一部を除き、
個体としては魔族という脅威には太刀打ちできない。

そういう前提のうえで魔族は個体として究極的な個人主義を掲げた存在、
強さこそが全てであり自分と他者が明確に分かたれ、
強者は弱者を踏みつけて良いという思想を隠さない。

と言うよりそれが魔族の常識だから隠すという考え方が理解できない、
それは作中で魔族は魔力を隠せないという設定で表現されている。

魔族にとって力こそが己のアイデンティティであり、
それを一時であれ隠蔽することすら億劫なことであり、
常に示すものであるということがわかります。

故に、魔族は自分と自分以外しか世の中には存在しないと考える、
自分に従う者か、虐げる者か、あるいは自身より上の強者か。

それ以外の考え方は基本できず誰ともつながることができない存在、
ようは序列を作り本能のままに生きだけど知恵を持つ獣です。

逆を言えば序列には厳しく魔族同士であれば弱者は強者に従う、
だけど強者が例えば死んだりすれば弱者認定されて、
その存在に敬意を払うこともできない。

それは、フリーレンと魔族の中で序列の高い断頭台のアウラの会話、
「ヒンメルはもういないじゃない」に表れている。

魔族には今この瞬間誰が強者で弱者なのかが全てであり、
思い出とか人間的な繋がりなどは一切見出だせない。

それ故に人間からすれば魔族は害なす獣、まごうことなき化け物であり、
フリーレンもまた容赦なく殺せると改めて意思を固めるわけですね。

ただ、個人主義を究極的に突き詰めると言えるだけのことはあって、
アウラにしても500年間研鑽を積み力をつけてきたことがわかる。

先に話したように作品世界における時間とは基本的にパワーであり、
時間をかけて研鑽を積み続ければ誰でも一廉の存在になれます。

アウラもまた500年間魔法の研鑽を積み続けた魔族であり、
個であって他者を一方的に侵害できる実質的な力を持っていました。

逆に言えばそれだけの力を持っていたから個で全てをまかなえた、
他者との繋がり等に意味を置く必要もなく強者と弱者の世界の中、
価値観の中で生きてきたのだとも言える。

逆にこの世界において人間は善い存在の象徴として描かれている、
人間の醜さを描くようなことはあまりない。

ちなみに善いとは人間的に善いということ、他者を尊重し興味関心を示し、
きちんと繋がりを持ち思いを次世代へと繋いでいくということです。

ようは、この作品の世界で人間は人間の善性を体現していて、
逆に悪性部分の全ては魔族に凝縮されていると言えます。

その悪性をさらに突き詰めた存在が例えば断頭台のアウラなわけです。

しかし、そんなアウラも千年生きた魔法使いのフリーレンに敗れますが、
この主人公フリーレンがこの作品の中で極めて特殊な存在であり、
主人公であること以上に世界観の中核をなす存在だと見て取れる。

フリーレンはエルフという長命種であり繰り返しですが千年生きている、
その精神性もどちらかと言えば魔族に近く同族への思いは見て取れますが、
同族以外への興味関心は過去から現在においてまでかなり薄い方でした。

しかし住んでいた村が魔族に襲撃されて全てを失い、
同じく魔族に全てを奪われた人間の魔法使いフランメに救われ、
魔王を倒すために長い時を魔法の研鑽と探求に費やしてきた。

つまり、魔族という人間以外の明確な敵が存在したこと、
人間に救われエルフにとっては一瞬でも魔法を教わり、
意図していたかはともかく思いを受け継いだという経験。

それら要素によって精神性としては魔族に近いながら、
意志は魔族に向いていて人間に対しては無関心に近かったのですね。

その後、勇者ヒンメルとその一行に出会い魔王を倒す旅に出て、
その過程で本格的に人と触れ合い思い出を作り繋がりを学ぶのです。

それをはっきり自覚したのがヒンメルが老衰によって死した後でした。

長命であるエルフのフリーレンと人間であるヒンメルは、
当然ですが死生観等の細かい価値観も異なる。

魔王討伐後に再開した時にヒンメルはすでに死を間近にした老人で、
フリーレンはそのことを知ってはいても理解できてなかった。

実際に死んで棺桶に入れられ最後にお墓へと入っていく時にはじめて、
死ぬ、いなくなる、もう話すことも触れ合うこともできなくなる、
そのことを実感し自分がヒンメルとの時間を軽視したことに気づいて。

涙を流して後悔するわけです。

この時、フリーレンは魔族、個人主義的な世界観から、
人間的な繋がりの世界の中に足を踏み入れたと解釈できます。

魔族的な個人主義の世界にいながら同時に人間的な価値観を、
未熟ながらでもあわせ持つ特殊な存在になり、
人間を知ろうと旅に出て徐々に人間らしさを学ぶ。

その過程でフェルンやシュタルクといった人間と出会い、
様々な関わり方をしながら繋がりの世界の中での、
自身のあり方を定めていくわけです。

ちなみに、フェルンはネット上だとお母さんとよく言われてますが、
これって外面的な要素以上に的を射た表現だと思うんですよ。

フリーレンはヒンメルの存在により人間的なあり方の一歩を踏み出した、
で、その人間的なあり方を成長させていく過程でもっとも近くにいたのが、
フェルンであり故にフリーレンの人間性の育ての親だとも言えるわけです。

さて、以上を踏まえたうえでじゃあなぜ葬送のフリーレンは、
ここまで世に広く受け入れられたのかと考えた時。

個人主義的な価値観と人間主義とでも言える価値観が相対する現実の中、
両者が交わるより良いあり方に対する1つの答えを示すものとして、
フリーレンという登場人物のあり方に期待が集まったからだと思っています。

現代は自由主義の元、強者総取りの価値観で世の中は回っている、
強者は自由を免罪符に弱者を搾取することを正当化し、
弱者の方もその価値観を刷り込まれてうまく反対することができない。

しかし、抑圧された弱者側にも我慢の限界がきていて、
そうして強者と弱者が大きく分断されその悪影響が、
実質的に噴出し始めているのが今の世界情勢だと言えるでしょう。

日本も例に漏れず徐々に強者と弱者の分断が大きくなってきている、
強者は弱者に興味関心を示さず自らを正当化して我を押し通すか、
聞きかじりの知識で頓珍漢な行動を起こし逆に反発を受けることもある。

弱者側の方も弱者ということを武器にする荒技を使う集団が出てきて、
強者になる研鑽を放棄しているとしか思えない行動が目立つこともある。

精神的な分断も大きくなりすでに両者が交わることができなくなっている、
お互いがお互いの主張を押し付けるだけで妥協点を見出すことができず、
表向きには相争う以外に道はないといった様相を示しています。

ですが、その一方でそういう争いに辟易している人もまた多いと思う、
そんな時に出てきたのが葬送のフリーレンという作品だった。

お話してきたようにフリーレンは強者として個人主義的な価値観を有し、
同時に人間的な価値観を理解したいという意志を持って歩む存在。

ともすれば分断されがちな両者の価値観の中心に立って、
より良い道を模索しようとしているのです。

故に、その道行きと到達点に無意識的にであれ惹かれる、
どういう最後を迎えどういう答えを出すのか。

興味を持てるのではないかとそう思ったわけです。

で、このことは現実に生きる人間が実際に、
模索していくべきものであると思う。

葬送のフリーレンにおいて魔族は実際に強大な力を持った存在で、
個人として卓越した能力を持ちあらゆることを成せる。

ですが、現実において個人主義の人間が個人のみで成したことなど、
ほとんどないと言っていいでしょう。

強者を規定するもの、例えば経済力にしてもその価値を支えているのは、
大多数の労働者でありその力がなければ何も成すことはできない。

ですから、経営者に対する抗議としてストライキが有効な手段となる、
ストライキする人数が多ければ多いほど経済活動を制限され、
不利益を被ることが多くなるからです。

現実において強者と呼ばれる者はごく一部の例外を除けば、
実際にはちょっとした要因で崩れる砂上の楼閣に過ぎない。

逆に弱者は思ったほど弱者であるわけでもない。

現実においてもっとも強い権力は大多数であることで、
弱者も増えて大多数の勢力であれば権力を振るえる。

それが、先にも話した弱者であることを利用する荒技に繋がり、
それがある程度発達した倫理道徳感から反論しづらかったりして、
新たな抑圧などを生んでいくことになる。

分断され、様々な軋轢が出てきて、それぞれが意見を押し付け、
徐々に社会全体が荒んで衰退していく。

そんな過程を辿っているのが日本に限った話ではありませんが、
その実情であると思うのです。

その先に行き着くところまで行き着いて完全に崩壊するのか、
それともどこかの段階で何かしら第三のより良いバランスの道を見出し、
そちらへと進んでいくことができるのか。

どちらが良いかと聞かれれば個人的には後者ですし、
であるなら先に話したように両者が交わるバランスを、
模索していくことが大事だと思うのです。

と、そんなことを考えさせられたという意味でも、
ほぼ序盤までですが葬送のフリーレンは面白い作品でした。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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