平等や自由であることこそ善という思想が際限のない差別を生んだ

現代ほど平等とか差別の撤廃などの思想が支配的な時代はないでしょう、
または自由など個であることこそもっとも重要だという思想も根強い。

そして同時にそれらの思想がただのまやかしであることに自覚的なことも。

平等を推進したり差別を許さないと言ったり自由こそ尊ぶべきと言いながら、
自分達の言動を善としそれ以外を抑圧しようとする人はいくらでも見つかる。

そういう人の姿を見て所詮は自分達の意見を正当化するためのお題目、
表面的な見せかけに過ぎないと感じることもあるかもしれません。

ですが、個人的にはそうではないと思っている。

平等や差別撤廃、自由など個人を解放するような思想を掲げる人は、
本気でそのような状況であれば良いと思っていることも多いでしょう。

ですが同時に本気でそれを実現しようとは思っていない、
あるいは実現できないと考えているのだと思われる。

なぜなら平等にしろ差別撤廃にしろそれを実現したいなら、
明確にある基準を定めなければならないからで、
だけど自由はそれに反するからです。

例えば機会の平等とよく言われますが、では機会とは何か?

経済的な差、何かに集中できる人と日常生活にリソースを多く取られる人、
両者は人間社会において機会が平等にあると言えるのか?

富裕層とは言わないまでも比較的余裕がある人がこの問に対して、
言えないと心から答えられる人は現代ではそう多くはないように思う。

こういう状況に対してそれは平等ではないと答えてしまったら、
必然的に富裕層等の富を別の誰かに移転させる傾向が強まるからです。

それは避けたい、だから機会を誰もが上を目指せる権利など、
極めて漠然とした基準として定めることで目をくらませる。

加えて自己責任論などで選択の責任のすべてを自己に帰することで、
反する意見を封じるとは言わないまでも肯定派と否定派で分断し、
目線を逸らそうとしたりするのだと考えられる。

前に竹中平蔵氏が若者には貧乏になる権利があるみたいなことを言い、
大きく炎上したことがあったかと思いますがこの主張は典型的。

貧乏になる権利、上を目指す意志もそうでない意志も、
持ち目指すことは自由であるという前提を定義することで、
実質的な機会の差から目を逸らしているように思う。

何にせよ言えるのは何を機会の基準とするかによって、
平等の意味が変わってくるということ。

他の平等とは、差別とは何であるのかなどにしても。

暫定的でもある絶対的な基準を定義してはじめて輪郭が生まれるのです。

故に繰り返しになりますが絶対的な基準を定めることなしに、
平等や差別撤廃を形にすることは不可能。

何を真理と、あるいは正義などと定めるかをまず行わない限り、
そしてそれに全体が同意しない限り実現しないのです。

しかし、そういう基準を定める努力を近代は怠ってきた、
真理や善を個人を縛る悪だと断じることで議論することすら封じ、
目を逸らし続けてきたのがここ数十年の世界的な傾向であったと思う。

その代わりに推奨されてきたのが自由主義や個人主義、
個であることこそ絶対であり正義でありその権利は犯せないという思想。

それが悪いことだと言うつもりはない、個々人がそれぞれ最高の状態で、
心から自分自身の幸せや望みのために力を尽くせるのは良いことでしょう。

ただ、絶対的な基準を設けず個人の感覚だけを頼りに、
求めるものや目指す場所を明確にすることは難しい。

何をすべきなのか、自分の人生にとって何を意味あるものと定めるのか、
何のものさしもないのに断言できる人はそう多くはないように思う。

と言うより自覚的か否かの違いだけで外から何かしら影響は受けている、
何らかの基準をゼロから生み出し定めることは不可能でしょう。

であればどうすればいいか?外からの影響とは何なのか?

自分以外と比較するしかない。

他人というものさしを用いて価値を判断する以外に方法がない。

ですがそれは他人と差がなければ価値基準を定められないことを意味する、
差がなければ比較しようがないからです。

そして比較するのであれば当然優劣が存在しなければならない、
何かは何かより優れていると感じられるからこそ、
比較によって価値が宿るからです。

個人が自由になるには比較による価値の明確化が必要ということ、
それはつまり自分は優れているが他人は劣っていると定義し、
それを押し付け守るということ、差別することに他ならない。

先に話したように平等、差別のない状態を実現するには、
何をその基準と定めるかが必要不可欠。

何かを絶対的な基準と定めれば自由であるということに反する、
それを基準の押し付けだと考え実際にそのように主張する人もいる。

しかし、個人が自由に価値あるものを追い求めることを許すなら、
比較し差別を生みそれを正義だとして押し付け正当化する必要がある。

差別をなくし平等であることが正しい、だけど自由であることも正しい、
基準ありきの平等思想と基準をぼかすことで成立する自由思想。

矛盾する2つの思想を同時に善であると近代は定めてきた。

故に、自由を実現するために差別を生みながら、
その差別を平等の名の下に否定し攻撃するという、
不毛な対立を延々と続けてきたように思う。

それは表面的にどちらも自らのわがままの押しつけのようにうつる、
冒頭でお話したようにただのまやかしのように思える。

しかし実際にはただ矛盾しているから衝突するだけのこと、
端的に言ってしまえば現実を見ていないが故の幻想にすぎない。

だから先に話したように平等や自由を本気で良いものだと思っていて、
だけどそれを本気で実現する気はない、実現できないと思っている。

幻想の中で生き現実にどうするかという議論を避けてきたからです。

現実の議論とはようは妥協、どこまでを絶対の基準として守り、
どこから個人の自由を認めるかというバランス感覚を養うこと。

それを怠ったから極端な平等を目指しあらゆる差別を否定攻撃し、
結果としてあらゆる自由を許さない社会主義のような思想が生まれ。

逆にあらゆる自由を肯定し個人の力の有無により、
差別的価値観の押し付けや正当化を許した結果、
弱肉強食の超格差社会を築き平等など程遠い状況が生まれた。

平等も自由も人間社会を回すために重要な要素ではある、
基準を定め守ること、個人が個人としてあること。

それは社会がなければ生きられない人間という存在が、
それでも個人として満たされるために必要です。

故にどこかで折り合いをつけちょうどよい妥協点を見い出せば、
より良く運営され全体的に安定した社会を築けるように思う。

逆に言えばそのバランスが崩れたから現代社会は、
物質的に満たされたにも関わらず今だ安定しないと考える。

精神的な負荷が増え続けているのではないかと思います。

なので、バランス感覚を取り戻すということは、
広く意識されるようになるのが大事ではないかと。

そう思ったというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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