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JAGATARAのこと・その4

 なぜか分からないが、江戸アケミの訃報はワイドショーでも取り上げられたので、告別式にも何台か取材用カメラが並んでいた。多磨霊園の日華斎場(今私は偶然この斎場の近くに住んでいる)。良く晴れた寒い日だった。気は引けたのだが、こちらも仕事ということで、参列したミュージシャンたちの声を録るべく、DATのデンスケ(死語!)を持って駆け付けた。真っ先にOTO氏の姿を探し、取材をさせてもらう旨告げて了解をもらう。  上に食事を用意してあるからと、斎場の座敷へ招かれた。靴脱ぎ場に、案内役な

    • JAGATARAのこと・その3

       1988年。後年出版された資料本では、関係者がこの頃からバンドの中に少しずつ罅が入ってきたと証言している時期だが、私の目には、ことLIVEにおいてはむしろ盤石に見えた。  8月の渋谷クアトロ「夏の人食い人種たち」、9月の芝浦インクスティックワンマン。とにかくアケミのテンションは高くかつ適度に制御されていて、音のぶ厚さも圧倒的だった。それをこなれてしまったとみるか、円熟とみるかは分かれるところかもしれないが、私はしちメンドクサイこと抜きで、ただただ疾走している音、転がってく

      • JAGATARAのこと・その2

        大学生活にも慣れ、時間に余裕が出てきたころは、ちょうどアケミが療養中で、バンドが活動停止していた時期に当たっていたため、LIVEを見ることは叶わなかった。活動再開は大学4年生の春後半頃だったが、その頃は今度はこちらが卒論やら何やらで多忙。LIVEの本数もまだ多くなく、たまにやる時は予定が合わずといった感じで、JAGATARAを直接見るようになるのは、私が東京に出てきて、仕事を始めてからとなる。 私がラジオ番組業界に入ろうと決めたのも、学生時代に多大な影響を受けたミュージシャ

        • JAGATARAのこと・その1

          1991年1月27日。江戸アケミ(正孝)、自宅浴室にて事故死。 あれから30年経ったことになる。37歳で逝ったアケミより遥かに長く生きている自分だが、アケミが生涯通じて発してきた信号はいまだ理解できているとは思えないし、受け止め切れてもいないようだ。 9.11や3.11、そしてコロナ禍をもしアケミが経験していたら、いったいどれだけの怒りと、そして示唆を放っていたことだろうか。元気だったとしたら67歳になっているアケミ。しかし死後の、このますますおかしくなっていく社会の中で

        JAGATARAのこと・その4

          胆嚢摘出手術覚書・その7(退院後のあれこれ)

          さて、退院後の体もさることながら、やはり気になるのは経済面=保険会社への保険料請求手続きだろう。まずはそこから。 ◆まず保険会社へ連絡し、事情を説明。すると数日後、保険会社から請求用の書類、それから医師に書いてもらう診断書が送られてくる(会社によって違うのでご確認を)。できれば、術後最初の診察までに手許に届くように連絡した方がいいだろう。 診断書は、大きな病院の場合は文書専門の受付があるので、そこに用紙を渡して依頼することになる。その際、病院窓口で申請書を書くのが普通。依

          胆嚢摘出手術覚書・その7(退院後のあれこれ)

          胆嚢摘出手術覚書・その6(退院!)

          読み返して気づいた、書き忘れていたことから。 私の場合、腹腔鏡手術のための傷は3か所だった。1つは、ほぼ臍そのものに開けた傷でこれが最も大きくて3センチ近くあり、回復まで時間が掛かった傷。次いで大きいのは、みぞおちのやや右寄りについた、約1センチ半くらいの傷。あと1つは右わき腹に近いところの、傷というより穴に近いようなもの。ここにはドレーンが付いていて、退院前日水曜朝の回診で外され、ガーゼを被せられ、退院当日朝の回診で傷が塞がったことを確認されガーゼも取り除かれた。 なお

          胆嚢摘出手術覚書・その6(退院!)

          胆嚢摘出手術覚書・その5(まだ光見えず)

          さて、晴れて病室へ戻れたものの、まだ手術翌日の朝とあって、自由に何ができるということもない。片腕はまだ点滴に繋がっているし、一度寝てしまえば、傷の痛みに怯えながら起き上がるのはいくらベッドの電動リクライニングがあっても大仕事だ。 医師の回診が9時前にあって、傷跡の確認と血圧などの問診、静脈血の採血など。特に異常なしということで、昼からの食事再開となる。最初の病院食は重湯に近い状態の粥に海苔の佃煮、イモを煮て薄味をつけ、潰したようなもの、大根とニンジンを少し甘めに柔らかく煮た

          胆嚢摘出手術覚書・その5(まだ光見えず)

          胆嚢摘出手術覚書・その4(手術後初夜の苦難)

          私の入った病院では、手術後ひと晩は、急変を見逃さないようにナースルームから見える観察室ですごす。 結果的にこのシステムは安心できた。麻酔から醒めても、急に痛みを感じるようなことは幸いなかったのだけど、頻繁にナースの世話になったからだ。身動きできないことからくる背中や腰の痛み、凝りとの戦い、そして何より苦しかったのが、酸素マスクを着けていることと、気管挿管をしたことで喉が荒れたことからくる強烈な喉の渇き。全く眠ることができない。私は14時半から手術だったので、終わったのは多分

          胆嚢摘出手術覚書・その4(手術後初夜の苦難)

          胆嚢摘出手術覚書・その3(下準備と手術まで)

          手術当日。前夜はもう諦めがついたというか、開き直った心境。最もナーバスだったのは1週前くらいだったかもしれない。 私は朝9時入院手続き、そこで病室が分かるというローテ。直前状況で個室が取れない可能性もあるからだ。手続きの際には高額医療費限度額認定証を提示すること。無事に手続きを終え、病室へ。手術は午後2時半スタートの予定と告げられる。  ここで手術前の、自分の身の準備について書いておく。前夜は、胆石手術の定番行事であるという「へその掃除」。綿棒にベビーオイルをつけて、取れ

          胆嚢摘出手術覚書・その3(下準備と手術まで)

          胆嚢摘出手術覚書・その2(手術決断)※追記あり

          8月31日の悶絶のあとは、とにかくできる限り脂肪分を避けた食生活を送って、発作の再発を防いだ。9月は、かかりつけ医でのエコー、血液検査などが続き、結局改めて胆石の存在を指摘された。 手術するしないは大病院の医師と話し合って決めてくれとのことで、紹介状を持って地域一の大病院へ。 手術についての基本的説明を受けたあと、「でもこの後もずっと脂肪分避けて生きていくわけにもいかないですよね?」の言葉にグラつく。一応1週間の考える時間をもらったものの、ほとんど自分の中では手術を受ける

          胆嚢摘出手術覚書・その2(手術決断)※追記あり

          胆嚢摘出手術覚書・その1(胆石症発症)

          <胆石発見> 10年くらい前、背中の上部に強いピンポイントの痛みを感じ、近所の内科でレントゲンを撮ったが異常なし、しかし私の痛がり方が強いので、即日受け入れてくれることになった大病院の呼吸器外科へ紹介状を書いてもらい、そこでCTを撮影した際に言われた一言が最初だった。 「肺や心臓に異常はないですね。痛みはおそらく悪い姿勢の維持などによる一時的な、筋肉の深いところの凝りだと思いますよ。で、それ以外に分かったことですが・・・ごく小さい胆石がありました」 この当時の胆石は、と

          胆嚢摘出手術覚書・その1(胆石症発症)