今日の詩

私が知る世界は狭すぎる。
家しか過ごせないのだから。
サーキュレーターの風をもって、私は旅をする。

世界は狭い 心鏡の湖

解説
家でしか過ごせない理由は様々である。暑いし、雨が降るし、お金もない、人という敵に遭遇する。ネットも心を許せる場所は限られている。それが私の知る世界なのだ。トイレの数歩、風呂の数歩、寝室の数歩でも私にとっては旅のようなもので、そのときにサーキュレーターの風が旅の友になるが、それでも屋内の域を出ない。

創作は孤独との社交ダンス。

心鏡の湖

解説
人にとって創作の捉え方は異なるだろうが、心鏡の湖は創作をそう思っている。孤独との社交ダンス。孤独と社交ダンスを踊っているに過ぎないのだと。別に社交ダンスを踊ったことはない。けれども孤独しかいないのだから、どれだけ知識がなくとも基礎がなくとも、踊る素振りを見せることはできる。情熱の心さえあればなんだって構わないのである。「人はいれど孤独を生きる それでいい私だから」なんて歌詞を作るくらいだからね。それでいいのである。むしろそれを望んでいる。人がいると疲れる。孤独は心鏡の湖を貶さず、必ず寄り添ってくれるのである。その微かな温かみが、創作のモチベーションになっている。孤独を擬人化しているわけだが、こいつ、アイナのことでは?

畳の目を指先でなぞるだけの、そんな雨の日。

心鏡の湖

解説
無意識の仕草を詩として作り上げてしまう、そんな心鏡の湖の大胆さに我ながら驚いている。畳の目をなぞったときのあの独特の感触は畳でしか味わえない。だからなんだという話なのだが、そこを批判するようでは詩の面白みなど分からんよ。

畳と雨でどのような情景が思い浮かべられるか。まずは湿気やカビが思いつく。実際に畳にはカビが生えていないが、そういう雰囲気もある。あとは出かけないで家でいることも分かるだろう。その裏の背景はどういったものなのか。実際のところは、無職で何もすることなく寝ているのだけれども。この詩を書く前に創作に関する記事を書いていたわけで。さすがにそこまでの背景など汲み取れないだろうが、そんなに事細かに書いたら、それはもはや詩ではない。曖昧にぼやかして、読み手に考える余白を与えられると、詩としての深みが増す。ときに画用紙は真っ白のままのほうが美しいと思えるようにな。それで描けないでいることのほうが多いのだが。まあそんなことはいいのさ。

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