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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#64

13 貨幣の重み(5)


 聞多が向かったのは品川の宿ではなく、大村益次郎の屋敷だった。
「夜分恐れ入ります。木戸さんから先生のご意見をお聞きするように命じられました。長崎を長く留守にするわけにも行かず、時間が惜しいのでご迷惑とは存じますが罷り越しました」
「まぁいいでしょう。お上がりなさい」
「木戸さんから長州での財務・兵制の改革の指揮監督をするように命じられました。実際は私は大阪におり、実務は山口の杉が行うことになります。その準備に先生から中央で行う兵制改革についてご教授いただきたいのです」
「木戸さんから聞いております。まずはこの辺の資料をお読みなさい」
「先生が行いたいのは、徴兵制ではないのですか。徴兵制は士族の役務を奪うことになります。また藩庁の役人でもないものに禄を払い続けることもできなくなります。そのような中で、藩の軍制を変えることが可能なのかどうか。お答えをいただきたい」
「そのような性急な物言いでは、変えられるものも変えられなくなる。説明をせねばならないのは君なのですよ。しっかり理解してからおかえりなさい」
 親兵となる部隊を選抜すること、大阪に兵学校を作り、士官となるものを養成すること。そのうえで徴兵制を敷き士族だけでなく平民からも軍に編成することになる。これが大まかな流れだった。長州の場合、選抜して親兵を作るところが、一番の難問となりそうだった。誰から説得していくべきか、杉とも一番最初に話し合うべきことになりそうだ。
 長崎に戻ると、6月に大阪に赴任することを知事の沢を始め府庁員に説明した。次には幕軍との戦に凱旋してくる、兵たちを向かい入れる準備を行った。
 橋の製作も進んでいることを確認すると、長崎を去ることが実感として捉えることができるようになった。くろがね橋と言われるようになる、この橋はこの年の8月に完成した。
 後ろ髪を引かれながらも、辞令を受け取るために東京に出た。その後横浜から新しい舞台である大阪に向かった。大阪は商人の町、米の集積地、それが聞多にとっての印象だった。
 色々な人のつてから、聞多は浅岡家の別邸を借りて住むことになった。落ち着く先が見つかると、山口から母親を呼び寄せた。はるも下関から呼び寄せようとしたが、出てくるつもりはないと吉富簡一を通して連絡があった。聞子については大阪のほうが落ち着くまで、吉富の方で養育をするとあった。聞多は良き乳母を見つけて、ある程度まで養育を頼みたいと返事をしていた。
「男女の仲などあっけないものじゃ。もっともわしが駄目なんじゃな」
 どうしても、真面目な恋愛というものが、できる気がしなかった。妻を娶ることが、束縛としか感じられなかった。
 ここからは大阪府庁にも、造幣寮の予定地にも近くて、もってこいの場所だった。大阪府庁で業務を行い、午後のある時間を造幣寮で打合せと進捗の確認と、作業員に仕事をしろとはっぱをかけることにしていた。
 造幣寮では工場の建設と就業規則等の規則作りが行われていた。ここでも刀と髷が問題になっていた。貨幣の鋳造を行う以上管理の徹底が求められる。頭髪や身なりを検査するため髷があっては解いて結ってということになるため、断髪と制服でやっていくべきという論が強くなっていた。そんなことを積み重ねながら詰めていった。
 一番の大敵はキンドルというお雇い外国人だった。グラバーのつてでオリエンタルバンク経由で雇われたこの人物には様々な人が手を焼いていた。ただ、このキンドルという人物は、もともと香港の造幣局で働いていたあと、日本の造幣寮の整備のために雇われた。建築や機械の据付工事の指図にとどまらず、鋳造に関しても指導を行っており、事実上現場の責任者になっていた。造幣頭は事務方の責任者であり、聞多はキンドルをうまく使うことも求められていた。また建築家のウォートルスも造幣寮の建築に参加していた。
 直接の部下ではないが、陸奥宗光という人物にも出会った。俊輔と一緒にいわゆる、「兵庫論」廃藩に関する献策を行った切れ物だった。聞多の元に俊輔の現況などを、聞きに来ることが多かった。また、まだ兵庫に残している、俊輔の家族の面倒を見ていた。
 9月に長崎に大阪府知事と出張をして、贋金交換の業務などを行った。このときに街を移動する際「奸賊井上を討つべし」などという張り紙を見て、聞多は気持ちが落ち込むのを実感するしかなかった。嫌な夢を思い出していた。
「やらにゃいかんことをやるだけじゃ。後のことはあとの人が判断すりゃええんじゃ」
勝海舟に言われたことが、今更ながら身にしみた。
 その後大阪府知事と別れて、聞多は山口に向かった。版籍奉還後の藩の改革を説明するためだった。まずは敬親に目通りを願った。
「お久しぶりでございます。この度参りましたのは、かねてより我が藩の財務の立て直し及び兵制改革につき、木戸殿や大村殿より、ご説明をいたすよう命じられてのことでございます」
「さようか」
「幕軍との戦も終わり、兵卒の数が多すぎることも、財務の悪化に拍車をかけております。今居ります藩兵を整理し諸隊も解体し、四大隊約2千人にいたします。その中の一大隊を親兵として政府に献上いたしたいと考えます。朝廷を尊ぶこと、非常時に役立つこととして、大事なことでございます。また財務においては、俸禄を削減いたしたく存じます」
「相わかった、そうせい」
「ありがたく存じます。具体的には杉や山田たちと担ってまいります」
 敬親公の前を下がると、杉孫七郎や山田顕義と話し合いを持ち、諸隊の解隊整理と俸禄の削減の方法について確認していた。その後諸隊の整理は進み、一大隊は東京に送られていた。ただし、諸隊の兵の中には選抜された親兵が士族が大多数を含んでいたことや、戊辰戦争の論功行賞もしっかりとは行われなかったことなどに、不満を持つものが多かった。
 諸隊の隊員の殆どは次男や三男など家を次ぐことができないものが占めており、兵として生きることが生活の糧となっていた。その糧をなくしてはこの先ままならないということを認識できていなかった。


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