【#3】現代の三島由紀夫になれたらいいなと思ってるよ/エッセイ
三島由紀夫の夢を見た。
僕は学生で三島由紀夫の大ファンで、講師として三島由紀夫を呼んだのだった。
僕の田舎の学校に来てくれた三島先生は45歳で、僕は頭の中で、この人はもうすぐ死ぬのだと考えていた。
三島先生は講義の途中に「私は、勝つ!」と言っていた、ここでその意味を知っているのは僕だけだった。
帰り際に、彼は大衆に向かって自分を講師に読んでくれた僕の名前を尋ね、友人が僕の代わりに僕の名前を答え、三島先生は
「○○ちゃんね、覚えておく」
と言って帰って行った。
僕の夢と現実がリンクしていたら、三島由紀夫は僕の名を知りながら死んだのだ。
と、僕は夢の中で考えていた。
目が覚めて、ふと三島由紀夫主演の『からっ風野郎』が観たくなってDVDをプレーヤーに入れた、途中まで観た。
僕は彼の不完全さ、不器用さ、それでも努力しようとしているその姿勢、それが好きなのだ。
未完の美とでも云えようか、自分を最大限にプロデュースしようという努力が、あゝ本当にこの人は努力の人だなと思う。
僕は何度か、太宰治のように生きるか、三島由紀夫のように生きるか、選択を迫られたことがある。
太宰は自身の不完全さ、不器用さを武器に、それが美しいのだと云って、弱さの美で生きていこうとしていた、それは三島先生とは対照的だ、太宰は弱さで戦っていこうとしたけれど、三島先生は弱さを乗り越えた自分で戦っていこうとしていた。
自身でも、自分と太宰は似ていると仰られていて、同族嫌悪されていた。
僕と太宰と三島先生のような不完全で不器用で弱い人間は、大方太宰のように生きるのではないかと思う。
そちらの方が楽だから、ありのままで愛して欲しいから。
だけれども、僕はありのままじゃない自己プロデュースの結果出来上がった自分をありのままの自分として、それを愛して貰おうとした、三島先生の生き方に惹かれたのだ。
そう云う姿勢に惚れたのだ。
だから僕は、三島先生のように生きようと、弱さを克服して強く生きようと決めたのだ、選択した。
実際の僕はどこまでも太宰だけれど、三島由紀夫の面影を少しずつ自分の中に涵養している。
それが僕の性に合っている、それはとても難しいことだけれど、僕は病気を武器にはしたくない。
それでも太宰治の言葉に共感し、太宰に救われたりするから太宰は好きなのだけれど、矢張り弱さの美ではなく、弱くても強くあろうとする美の方が僕は格好良く思えるのだ。
僕は現代の三島由紀夫になれたらいいなと思ってるよ。
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