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山本博志が飛車を振らなかった日――連載「棋士、AI、その他の話」第17回

 2019年11月14日、順位戦C級2組、対出口若武戦。山本博志は初手に8分51秒考え、そして飛車先の歩を突いた。なんてことはない普通の一手にそれだけ時間を使うのはもちろん理由がある。彼は生粋の振り飛車党だ。三間飛車をこよなく愛し、三間飛車で勝ち続けてプロになった。そんな彼が、公式戦で初めて居飛車を指す決意を固めるための、それは8分51秒だった。

 振り飛車党には二種類いる。振り飛車であれば何でも指す者と、振り飛車の中でも特に一つの戦型にこだわって指す者。代表例としては、前者は久保利明九段や菅井竜也八段、後者は藤井猛九段が挙げられる。
 飛車を左に振りたい、というのはつまり、玉を右に囲いたいということである。左辺は相手の飛車に近く、右辺に比べて危険度が高い。しかし右に行こうにも自らの飛車が道をふさいでいる。なので飛車を左に退かし、その後に玉を移動させる。実にロジカルな発想なのだが当然のデメリットとして飛車を動かす一手分の損が生じる。必然、手が立ち後れて守勢に回ることになる。自ら仕掛けていく将棋にはなりにくい。代わりに玉はしっかり囲っているから耐久力が高く、一手のミスで即死するようなこともない。そして非勢に陥っても粘りが効く。
 今もプロ棋界の主流は居飛車だが、振り飛車を主力とする新人は意外に多い。成績も良好で順位戦昇級や新人王戦決勝進出など結果を残している。活躍する振り飛車党は大抵終盤力に定評がある。鮮やかな捌きや、粘りからの逆転を武器として勝ち進んでいく。久保九段は「将棋は結局終盤で決まる」と公言している。だから居飛車も振り飛車も優秀な戦法としては変わりないのだ、と。
 そんな思想と真逆の立ち位置にいるのが藤井猛九段だ。かの有名な藤井システムには終盤がない。正しくは相手側のみ強制的に終盤にさせる。ドンパチやっているのは対岸、居玉のこちらには風も吹かない。それが究極の理想だが、当然そうもいかないので藤井は綿密なシステム化を図った。その結果が竜王三連覇だ。
 藤井は自らを先行逃げ切り型と認めている。他を圧倒する研究で終盤までにセーフティリードを築く。それが藤井猛の将棋であり、実戦経験が少ないままプロになったハンデを克服するための方法論だった。藤井はただ勝つための研究をしない。その戦法を自分のものとして長く勝ち続けるための研究をする。専門誌の座談会で藤井は次のように発言している。
「研究しているときの基本的な気持ちとしては、僕も相手は全世界です。「1局、2局はこれで勝てるかな」といった精神では絶対にやりませんね」
 藤井の思想は、AI研究全盛の現代では特にマイノリティだろう。しかし、そんなマイノリティを目指そうとする者が、藤井の他にもいる。

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