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時にはハンデが必要だ――連載「棋士、AI、その他の話」第31回

 「名人に香を引く」という言葉がある。
 時は1932年、13歳の升田幸三少年は一念発起し、家を出る。「日本一の将棋指し」になるためだ。この際、家に墨で書き残したのが、「この幸三、名人香車を引いて勝ったら大阪に行く」という文言だった。「勝ったら」は「勝つため」の誤りであり、つまりは将棋で天辺を取るという宣言なのだった。
 この言葉は、後年現実のものとなる。

 香を引くとは、将棋用語で「香車を1枚抜いた状態で戦う」ことを意味する。要はハンデ戦だ。強い方の駒を減らし、棋力のバランスを取っている。このような調整を「駒落ち」と呼ぶ。香車を減らす場合は「香落ち」だ。
 名人は当然ながらこの世で最も将棋の強い人物である。そうでなければならない。そういった思考は、特に昭和の時代では強く根付いていただろう。その名人に「香車を引いて勝ちたい」ということはつまり、名人よりも遥かに強い存在になりたいということであり、升田の強い決意と信念を如実に表していた。
 そして時を経て1956年。王将戦で時の名人・大山康晴に4連勝した升田は、制度により次局、香落ちで戦うことになった。かつての決意を実現する、またとない機会だ。
 そして升田は勝負に勝った。
 実際のところ、香落ちはハンデとしては緩く、平手(ハンデなし)とあまり差はない。しかし事実として「名人が香を引いて負けた」ということには非常な重みがあるだろう。大山の心情を慮ったか、升田はその後の対局を病気を理由に棄権している。
 
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