見出し画像

ため息俳句番外#35 ボッチ俳句の弁

 図書館で石寒太他「俳句って何?」(邑書林・刊)という便利本を見かけた。「他」と失礼したが、素人の自分でもお名前は存じ上げ、少しは作品を読ませていただいておる方もいて、それぞれ名を成した方々であるから、信頼のおける一書であろうと手にした。

 このところ国会図書館デジタルコレクションで手軽に例えば「ホトトギス」の創刊一号が読める、ありがたいことだ。そういうわけで、あちらこちらと拾い読みするのが爺ィの楽しみの一つである。俳句史に名を連ねる結社誌ばかりとあって、どれを読んでも、集う人々の結束の強さ、志の高さ、恐れずに切磋琢磨される意欲、そうして主宰者の絶対性、そういうことがひしひしと伝わってくる。

 そんなことに感心していたもので、冒頭にあげた便利本で、こんな箇所をみかけて、つい反応してしまった。

一匹狼でも新聞俳壇、テレビ、ラジオの俳句番組、雑誌の俳句ランや俳句総合雑誌へのへの投句など発表の場はたくさんありますが、そのようなところへの投句だけで後世に名を残した俳人は一人もいません。(ますぶち椿子)

「俳句って何?」(邑書林・刊)

 さようでござるか、と。すごいねえー。俳人のみなさんは「後世に名を残す」のを目指しておられたのかと、改めてびっくりした。「一匹狼」という表現もエライなあ。

 こんなことも書かれていた。

俳句は結社、あるいは共通の理解の場を多く持つ連衆(仲間)があってはじめて成り立つ文学という特殊性持っています。また俳人自体も結社の中にあってこそ鍛えられ育てられます。  (加古宗也)

「俳句って何?」(邑書林・刊)

 こう堂々と言われると、返す言葉もない。それでは自分なら、そんな場には身の置き所を見いだすことが出来ないだろうと思うのだった。自分は何につけても意識の高い人達の間にはいると息苦しくてならなくなるからだ。
 世の中には、膨大な数の俳句結社、俳句グループ、俳句サークル、カルチャーセンター俳句、公民館俳句会・・・・、そこにはそれそれに主宰者、講師、師匠、宗匠、リーダーはいらっしゃるはずだ。句会、吟行いろいろあって、互いに大いに精進されいるわけだ。
 とすれば、だれとも交渉を持たず、自分勝手にこういう公の場でぬけぬけと俳句まがいを発表している自分とは、何か?本格正統な俳人の皆様の眼にはクズとしか見えないだろう。そう思うと、気分が少し凹んだのであった。どうして、自分は人並みに歩調を合わすことが出来ないのだろうかと。

 とは云え、なんて俳句というのは文学としては特殊なんだろうと改めて思った。「共通の理解の場」というのは聞こえがよいが、そういうのは狭く閉じられ場になりがちではないかなと。また、結社の主宰者が世襲されることも特別なことではないとも書いてあった。表現者としての手腕と人をまとめてゆく力は別物なのだと。世襲にはこの「まとまる」ということに効果があるらしい。今どきの感覚では前時代的だなんて言うつもりはないが、こんな風な封鎖性はなんとも「日本的」だと思われる。俳句結社というのは、徒弟制度が徹底した芸能の世界に近いのかも知れない。うかがい知れないながらも、よくわかりませんが、そんな印象。

 白状すれば、文学に限らず芸術とういうものがちんぷんかんぷんだ。それなのに世に「芸術」的とラベリングされていることにどことない憧れを抱き、関心を向け続けてきた。文芸、哲学、歴史といった分野の書籍、映画、美術展、写真展、コンサート、建築、仏教美術の見物、漫画、・・・・、とにかく自分の乏しい小遣いの大半はそうしたもの消費に消えた。にもかかわらず、この年になってもちんぷんかんぷん。当然、俳句だってわかるはずがない。

 それでは、なぜに途中で止めなかったかというと、自分が一人ボッチであたったからだ。老い先短い身ではあるが、妻子も孫もいて、見方によれば悠々自適風なお前がボッチなんていえるのかと云われそうだが、ボッチ人間であってもそのくらいにはなれるのだ。
 「芸術」的なるものごとには、わからないながらもボッチの孤独を紛らわせてくれる何かがあった、確かに。それは癒しとか慰めというような質のものもあるが、もっと理念に近いこととして、孤立している人間であっても「世界」へと通じて行ける何かを汲み取れるのだ、それが面白さだ。孤立しつつも世界へとつながれるかもしれないと、それは面白いことだ。
 とにかく、いろいろなゲージュツは、一人遊びのツールとしては、優れモノである。一人で遊べる人は、実はあまり退屈ということを感じないものだと、自分は経験的に思っている。
 そうして、ゲージュツ一人遊びでは、受容者でいるより作り出す出す側の方に身を置くのが、コスパ的にもよいものだ。つまり、創作に打ち込む、これが楽しい。その時、自分の場合で云えば独りで学ぶ楽しさを知る、これも一人遊びの大切な要素だ。
 
 自分の場合もここに駄文駄句を公開している以上、誰かの目に触れることを前提としている、こんな愚録に関心を寄せてくれている方々がいるらしい、それはそれは率直にうれしいことなのだと認めざるを得ない。だが、その皆さんに向けて物を書いているかといえば、曖昧な気分になる。意識しているとも、意識していないとも言えない。書いたものが受け入れられてもらったか、反発されたか、それも余り気にならない。どこまでいっても、本質的には独り言のようなものであるような気がしている。
 一人遊びである。
 そういう自分であるから、俳句がよく言われる「座」の文芸だとすれば、自分は俳句という文芸から遠いところにいる人間である。
 
 結論が出た、ボッチが詠む俳句もどき。そこが、この爺ィの立ち位置である、と。

 妙なことを書いてしまった。数日後、削除してしまうかも。