ため息俳句 古いピアノ
花ミモザ黒鍵ばかりほつほつと 空茶
寒い一日であった。少し雷めいた空模様も見せた。
気鬱が抜けない。
その合間をぬって、二カ所お墓参りをした。三カ所目は我が家の墓だからこれはお彼岸の終いの日にゆく。その彼岸明けの日は、走り口という。どうしてそう言うのか、母親から聞いたことがあったが内容はすっかり忘れてしまった。今月は、墓参りに多忙だ。
我が家にも弾き手がいなくなったピアノがある。置き場もなくて居間から移動できない。
古いピアノで、妻が自分が若いころに弾いていた。それを実家から運んで、二人の子がこのピアノで練習した。息子は今でも趣味にしているらしいが、娘は中学生の頃には止めていた。その二人も、それぞれに家庭を持ち、こんどはそれぞれの家で子供たちがピアノを練習している。
孫たちは、電子ピアノであるが、我が家にあるのは頑丈そうで真っ黒いアップライトピアノだ。場所ふさぎだと内心思うが、この古いピアノには思い出があるので捨ててしまうとは思わないのだ。
そもそもが、ピアノなどというものは縁のない生活であった。妻からピアノを家に置きたいと言われたとき、戸惑ったものだ。このピアノは妻が進学に当たって受験科目にピアノの実技があったために、俄かに必要になったのだ。50年余り前のことだから、義理の父も相当無理したはずだ。結果彼女は希望の学校に入学できたので、結果はまずまずだったのだろう。
自分の感覚では、ピアノなんて贅沢品の極みのようなものだ。子ども頃、クラスでピアノが弾けるという子が何人いただろう。おそらく、ほぼ50人中一人、いたかどうか。そんな子は、特別な階層の家の子で自分ら貧乏人の小せがれとは、住む世界が違っていた。そんな風であったので、家にピアノが運ばれてきた時、妙な気分であったことを記憶している。
そのピアノも、今や無用の長物であるのだ。
誰もいない一人の時、鍵盤を叩いてみる。
指を落とすと、ピアノは音を出す。
レスポンスあり。
それで、なぜか、気分が静かに落ち着くような。