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ため息俳句番外#45 食う飲むこと

 
 岸上大作は、自分よりほぼ10歳年上であるが、彼が遺した「意思表示」という歌集を今でも時折手に取る。
 その岸上と同じく若くして亡くなった萩原慎一郎さんの「滑走路」をこの頃になって読んだのだった。そうして、また岸上を連想し、久しぶりに長沢延子を痛ましく思い出した。

 この歌集は、すでに多くのことが語られいるので、自分などが改めて云うことは無い。
 ただこんなことを、少しだけ。
 「滑走路」を読み進めるうちに、飲食に関わる歌に、心が惹かれた。  

辛口のカレーに舌は燃えながら恋するこころこういくものか   
夕焼けをおつまみにして飲むビール一編の詩となれこの孤独
スパゲッティミートソースを混ぜに混ぜじんわり舌に感じるイタリア
パソコンの向こうにひとがいるんだとアイスクリーム食べて深呼吸
君のそのクリームパンの誘惑に思わず僕は囓りたくなる
梨を食むときのシャキシャキ霜柱踏みゆくときのシャキシャキに似る
提げている袋の中におにぎりと緑茶を入れてもうすぐ春だ
まだ結果だせず野にある自販機で買いたるコーラいまにみていり
至福とは特に悩みのない日のことかもしれなず午後のココア
(あのときのこと思いだし紙コップ潰してしまいたくなりぬ ふと)
ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる
天丼を食べているのだ 愛しても愛しても愛届くことなく
一人ではないのだよ そんな気がしたら大丈夫だよ 弁当を食む
海老フライならばタルタルソースにてとある日の午後食べたるぼくだ
(牛丼屋頑張っているきみがいてきみの頑張りは時給以上だ)
カレー専門店でカレー食べながら生きることって愛することだ
頭下げて頭下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく
(この列はなんの列かと思ったらシュークリームの列だったのだ)
ひるやすみカレーうどんを食べながら愛のない暮らしなどはうんざり
(イギリスに行くことあれば食べたいな 本場のフィッシアンドチップス)
(テレビにて「伊勢海老まつり」特集されていたから食べたくなった)
海老フライまるごとばりり、ばりりって残さず食べてしまうのですよ
腹ぺこのおなか満足させてくれ 牛丼屋にて大盛り頼む
食べるならおいしいもの食べたいな 昼は牛丼屋でいいけど
桃食めばひとつの種が残りたり 考えていることがあるのだ
なにひとつ考えなしに居酒屋で焼鶏たべているわけじゃない
とりあえず眼の前にある自販機で缶のコーヒー買っているのだ
現実は奥行きがあり自販機で買ったコーヒー飲んでいるのだ

  以上、「滑走路」の中で、飲食に触れた歌を目についただけ全部抜き出した。抜き書きをし始めたら、止められなくなってしまったのだ。胸が詰まる。

 ゴチックにしたのは、牛丼関係である。かくいう自分も牛丼屋の牛丼には世話になった。
 町中に牛丼のチェーン店が瞬く間に展開していったのはいつ頃だったろう。始めはなんとなく敷居が高いような気がしたが、いつの間にか昼時になると牛丼屋のカウンター席にいた。牛丼屋は早い安い旨いが売りであるが、自分にとっては、一人になれるのがよかった。同僚と連れだって昼飯を食べるのが、気の重い時もある。とういうより、昼飯くらいは一人になりたかった。そんな自分には、牛丼屋は気兼ねがいらないほっと一息つける食事場所であった。見知らぬ男達と肩を並べて、並盛りにおしんこ・味噌汁を、喰った。食べ終わると、三軒先のドトールでコーヒーを飲み、しんどかった午前に一旦区切りをつけて、午後の仕事へ。

頭下げて頭下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく

 
 できることなら食事くらいは心穏やかにしたい。ところが、ひとは、ものを喰いながら、飲みながら、物思いにとらわれることがある。

桃食めばひとつの種が残りたり 考えていることがあるのだ


食べていながら、旨いか不味いかなど以前に、味すら感じられない。砂を噛むように、飯を食うのだ。
 「滑走路」の飲食の歌は、大体が昼飯のようであるが、いつも一人で飲み喰いしている。それも、街角で手安く入手でき、そうして安価でありふれたものだである。
 しかし、変な云い方だが、実にたいせつな時間である。
 自分自身を振り返っても、牛丼を喰う、缶コーヒーを飲む、それでとりあえず次の仕事へ行けた、そんな日がたくさんあったような気がする。ひとまずは、なにがあろうと三度の飯は食う。辛い時こそ食う。それが、生きる基本のように、続けたい、「のだ」と。

とりあえず眼の前にある自販機で缶のコーヒー買っているのだ

現実は奥行きがあり自販機で買ったコーヒー飲んでいるのだ

 
 「滑走路」は、この時代の若者の閉塞感を次の時代へも伝えてゆく歌集であると、思う。