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ため息俳句番外#27 お弁当と団栗

 よい天気であったし、古女房は美容院に行くと云うし、なんとなく通いなれた群馬の近代美術館にでもゆこうかと、家を出た。
 いつのように、隣の市の町外れにある道の駅で、お握りを買って、入館前に腹ごしらえをしようと、おにぎり屋に立ち寄ると、天丼弁当というのが目についた。いつもお握りでは能がないぞと、それを購入した。
 予定どおり11時半には美術館と博物館が隣り合わせに建つ群馬の森という公園のベンチで、弁当を広げた。

 これが、ちょとしたのもので、確かに天ぷらなので天丼だが、かき揚げなのだ。そのかき揚げの具材が、葱一色。たしかに隣町は葱の産地として全国に知られている。それで、葱のかき揚げなのだろう、折しも葱は高騰しているのだと女房が嘆いていたので、むしろこんなに葱三昧というのは、ありがたいことかも知れないと、感謝しつつ食べたが、冷えた天ぷらというのは、如何せんいかがなものか、ちょっと後悔もあった。
 
 食べつつ足元を見ると、団栗が転がっている。
 団栗をみると、つい「団栗ころころころがって・・・」を脳みそが歌い出すのだが、この頃は一茶の句も思い出す。
 一茶の団栗の句はどれも楽しくていいのだ。

団栗やしこうして後露時雨    文化五六句記
団栗がむけんの鐘をたゝく也   八番日記
団栗のん寝んころりころりかな  八番日記
とるとしや団栗にまでおっころぶ 八番日記
団栗とはねっくらする小猫哉   文政句帖
団栗やころり子共こどもの云ふなりに  八番日記
団栗や流れ任せの身の行衛ゆくえ    八番日記
団栗や三べん巡って池に入る   文政句帖


 「而して」とは、そうしてとかそれからという意味だが、漢文調にして見せたのが面白い。何だか、団栗が枝から落ちたことが一大事のようではないか。「露時雨」とは地面から蒸発した水蒸気が霧状にみえるのをいうのだそうな。
 「むけんの鐘」とは、ここでは手水鉢だろう。団栗の実が手水鉢に落ちた、もしかしたらその鐘の音は、ポチャン。遠くに、芭蕉の「古池」の句がちらつく。
 「寝ん寝んころりころり哉」一番好きな句。ほっこりする。このフレーズが、一茶の生きた頃にもあったのだと思うと、一層一茶を身近に感じる。
 年をとると、団栗を踏んで「おっころぶ」ことだってきっとある、自分も気をつけよう。
 団栗がはらりほろりと枝から落ちてきて転がるのに、仔猫がじゃれついて追いかけまして「はねっくら」になる、なんと可愛い。
 団栗は、子供に自然が恵んでくれるおもちゃである。
 「流れ任せの身」であれば、「三べん巡って池に入る」のだ、団栗よ我も同じな身の上だと。そこで、出会うのが泥鰌であるとは、限らないし。運命に流されて思うままに生きることができなくても、すぐにぽちゃんと池に落っこちるのはご免だ、せめて三回巡るぐらいはと。

 


 この弁当のよいところがあった。油が胃にもたれなかった。そこで、やはり良心的なお握り屋さんであったことを改めて確認した。

 ついても、畏れ多くも美術鑑賞を前にそんな食事は似合っていないとお思いの方がもしや居たとしよう。でもね、この頃は、いや昔からか、美術館やらに付属するレストランは、つんと乙にすましているような感じの店が普通だ。
 そういうのは、自分はいやなのだ。絵を見に行くとか、音楽を聴きに行くとかなにか特別なイベントにしてしまうのは、つまらない。例えば駅の立ち蕎麦のような気軽く食事ができる美術館の食堂、どこかにないだろうか。
 句を作るのだって、「文学」していますという感じは、自分には縁遠いことだ。

 で、展覧会であるが、自分の個人的感想であるが、・・・おもわしくなかった。外部の業者へ発注しているのだろうか、お手軽過ぎる。
 
 拾ってきた団栗で遊ぼうとしたが。

団栗にさいの目はなし夜寒かな


注、一茶の句の「はねっくらする小猫哉」は、「はねくら」で、多分元は「はねくらべ」であろう。ここでも「はねる」は、自分の使用範囲では「勢いよくとび上がる。躍り上がる。」ということだが、地方によってはどうも異なる意味があるようだ、信州辺りではどうなのか分からない。