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空き家銃砲店 第七話 <居間>

仏間と居間は二間続きで、襖で隔たれていた。仏間は祖父の部屋で、居間は祖父のタンスと祖母の鏡台、紅葉の屏風があった。祖母の箪笥は覚えていないが、並んでいたのだろうか。

仏間に比べると飾り気のない部屋だが、冬になるとこたつはここに置かれたし、大晦日の<お年とり>もここだ。一年の終わりに海なし県ではご馳走として<魚>がでる。新年はその魚のお雑煮で迎える。

地域によってサケだったりするのだが、家ではブリだった。新潟の糸魚川から松本・塩尻まで塩を運んだ<塩の道>沿いの地域なので、その関係だろう。日頃は見ない大きさの、お皿からはみ出すような大きさのブリを父と母、妹もそろって食べた。その後、象牙の牌で家族マージャンをしたので、ここにも座卓があったはずである。どんな座卓がさっぱり覚えていないが、大きさからいっておそらく黒檀の座卓だろう。

襖の上にあったのは、霞(かすみ)模様にしたエ霞文様(えがすみ)と千本格子の欄間。木を細かく切って並べたもので、今はつくる人がいないと言われたこともあったが、それは井の中の蛙(かえる)らしい。インターネットで検索したら和風建具として作られている。

おまけ

衝動的にこの家を処分したくなる時が来る。まずは祖母が他界してすぐ、ご近所さん伝手に「貸してほしい」とお話が来た。当時、物がたくさん残され、人様に貸せるような状態ではなかったため、断って家の片づけを始めた。

その後片づけが進み、移築物件として雑誌に掲載したが、「囲炉裏がない」という条件で断られた。では、「解体して古材として買ってもらおう」と古材査定の業者さんを頼んだら、早速見積もりに来て、木材について色々教えてくれ、ノートを忘れて帰った。翌日連絡したところ、連絡がつかない。しばらくして電話が来たが、その人は見積もりの翌朝入院したという。見積もりは出してもらったが「ノートは捨ててほしい」と言われ、話はなんとなくお流れになってしまった。たまに母が思いついたように「壊そうか」というのが踏ん切りがつかないままだ。


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