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23/12/05 これが最後 夫の話 

本日、12/5は夫の命日。なんと七回忌。6年が過ぎました。

数年前、近所に住むお爺さんの、亡くなった奥様の話を聞く機会がありました。
「10年経つけど、やっといない生活に慣れたよ」なんておっしゃったことがずっと頭から離れなくて、ああ私もずーっと夫との過去を、引きずりながら生きていくのだろうかと思ってがっかりしていたのですが、例えそういう気持ちが心のどこかに残ったとしても、それを肯定的に受け入れすぎたら、夫の亡霊に取り憑かれたような人生になるような気がして。それはどうなんだろうと。私はいつになったら、本当の意味での「ひとり」になるんだろう?と思っていました。

ずっと夫の亡霊を抱えて暮らすことで、記憶の風化の中で美化が加速して、嘘か誠かわからなくなったような思い出話を人に語ったりすることが怖いなあと思い始めていました。そんなこともあり、夫のことを書くのは今回を最後にしようと思っています。

夫との出会いは、約30年前。フジテレビの深夜番組「落語のピン」という番組の制作で出会いました。その番組で夫はプロデューサー兼ディレクター、私は駆け出しの音響効果でした。私にとって、夫だけではなく落語とも出会うきっかけになった番組で、人生に大きな影響を与えました。罪な番組。

あの頃の私は大酒飲み&大食感で、某番組の慰労会で某局の箱根・強羅の保養所に連れて行ってもらった時、当時働いていた会社の社長から預かったオールドパー(高級ウイスキー)1本をひとり一晩で空けるくらいの、呑んだくれでした。夫とはそういう面で意気投合し、よく呑みに行くようになりました。私としましては、夫と行動を共にすると、美味しいものを食べさせてくれて、酒もたらふく飲ませてくれて、おまけにハマりつつあった落語にも連れていってくれるし、豆知識も教えてくれるし、一緒にいてメリットだらけのおじさんという感じでした。まさか結婚するとは思いもしませんでしたが、なぜか結婚してしまうんですね。下北沢で朝まで飲んで、酔い潰れた夫を置き去りにして帰ったりもしましたが、それもいい思い出です。

夫は番組制作会社勤務でしたので、落語のことだけやっていたわけじゃありません。TBS落語研究会はライフワークのようになっていましたが、様々なバラエティー番組制作にも関わっていました。「世界まるごと2001年」「ギミア・ぶれいく」「くっきん夫婦」「ダウトを探せ!」「隠れ家ごはん!〜メニューのない料理店〜」「きょうの料理ビギナーズ」「おとうさんといっしょ」「あれも食いたい・これも食いたい」などなど。若い頃は3ヶ月間ヨーロッパに行きっぱなしなんてこともあったようで、当時の写真が100枚近く残されています。

そんな中、なんとか落語番組を地上波でやりたいと、虎視眈々とその機会を狙ってはいましたが、あまりうまくいかなかったみたいで、ポロリと愚痴を漏らすこともありました。「落語の企画は通らない。なぜなら数字(視聴率)が取れないから。」このセリフは、彼が40代の頃、しょっちゅう聞いていました。私は子育てが忙しい時期だったので、ただフンフン聞くだけでしたが。

実は、落語のピンが終了して数年後、某公共放送で落語のレギュラー番組の話が持ち上がっていましたが、公共放送側の担当が急死されて、特番しか放送できずに終わってしまったこともありました。あの方が生きていたら、その後の落語番組はもっと多岐に渡っていた可能性も。もう終わったことですが、若い方でしたし(30代でした)いろんな意味で残念な出来事でした。

2012年のある日、夫は我が家の近所に300席のホールができるという情報を掴んできました。「俺の家の近所のホールで、他の奴に落語会をやって欲しくない」「自分のやりたいように、自由にやってみたい」「300席なんて、落語にピッタリサイズ!(実際は音楽ホールですが)」と熱く語ってきました。私は物事を慎重に考えて判断するというより、勘や感覚で決める人間で、結婚後は子育てに忙しいことを言い訳に、世間知らずでもありました。夫の落語に関係することには絶大な信頼を置いていたこともあり、そんなに言うならそうすればいいじゃん。楽しそうだし〜くらいの気持ちで快諾。鶴川落語会の誕生と相成りました。

落語会は思ったより大変でした。なぜなら夫は顔づけや出演者の師匠方との交渉はやるのですが、お客様に関わることやホールとの交渉はほぼ私に任せっきり。もちろん、夫が担う部分である「師匠方との交渉」が落語会の肝であることは承知していますが、それ以外は何もしない。そりゃ大変ですよ。だけど、回を重ねていくうちに私も楽しくなっちゃって。元々落語が好きでしたし、夫の策略にまんまとハマった感じでした。

その頃は、TBS落語研究会の名物プロデューサーだった白井良幹さんが亡くなられて7、8年といった頃で、夫が一人で顔付けするようになって10年は経過していました。落語研究会の伝統は受け継ぎつつ、自分の中の「これだ」と思う顔付けを実現できるようになりつつあって、そんな立場を利用して、地元で落語会を開催していたのですから、今思えば自由でしたね。それも、会社にほったらかされていたからできたことでした。

彼はTBS落語研究会のイメージで、古典至上主義のように思われていましたが、決してそんなことはありませんでした。その辺のことは夫が関わった仕事で、最後に世に出た「落語研究会 柳家喬太郎名演集」の京須偕充さんの解説文を読んでいただくのが早いです。売り物なのでここに披露できませんが、一部だけ抜粋しますと、

 今野徹と筆者の落語感がどこまで近かったかは確かめたことがないし、今となっては確かめようもないが、古典落語と新作落語を互いに融合する余地のない正反対の物質のようにとらえるつもりがないことでは一致していたと思う。
 同時に、漫然と古格を守る能しかない古典に欠伸し、噺の舞台が現代であっても人間性を映した噺と語りには拍手をする同志同人であることは、いくらか認め合っていたと思っている。

京須偕充 落語研究会柳家喬太郎名演集 柳家喬太郎と今野徹の「落語研究会」より抜粋 

同じ屋根の下に長く一緒に暮らしていたとはいえ、彼の全てをわかっていたとは言えないのですが、何の因果か落語会を一緒にやることになったことで、傍で彼の落語への姿勢や考え方に触れてきたので、この京須偕充さんの文章を読んで、わかってくれる人がいたと涙が出るほど嬉しかったのでした。

そう、私が彼の死をここまで引きずった背景に、彼がやりたかったことの半分も叶えることなく死んでしまったことへの悔しさがあります。落語研究会で叶うはずだったこと。落語研究会以外で挑戦しようとしていたこと。全てが終わってしまった虚しさ。本当にこれからだったのです。ああなんて悔しい。わたしがこんなに悔しいのだから、本人はもっと悔しかったでしょう。

大腸がんのステージ4と医師から告げられた2015年12月のある日。彼は「まだ死にたくない」と泣きました。私もそう簡単に死なせやしないと思ったし、そこから2年で死ぬなんて思いもしなかった。大腸がんの治療薬は、がんの中でも一番種類が多いと聞いていましたが、どの薬も彼のがんにはそれほど効果がありませんでした。

亡くなる年の2017年夏には、肺や骨への転移が悪化し、家の前の坂道を自分の足で登れなくなり、駅まで車で送り迎えしていました。その頃からモルヒネも使用し、痛みをコントロールする状態になっていたのですが、仕事を休むとは言わなかったですねえ。ちょうどNHK「落語ディーパー」が放送され、注目されていた時期でもありました。

「落語ディーパー」では「バラエティーとしての落語番組」としてやりたかったことが叶った番組でした。評判も上々で、NHK局内の賞も受賞しました。賞金の使い道として、スタッフと出演者でお祝いの飲み会があったのですが、それが彼の亡くなる1ヶ月半前のこと。医師に「桜は見られないから、仕事は整理して引き継ぎし始めた方がいい」と宣告された直後でした。正直酒が飲めるような体調ではありませんでしたし、それどころか会場にたどり着けるかどうか。それでも「どうしても行きたい」と言い張るので、前日は都内のホテルに宿泊して参加しました。

「桜は見られない」とは言われていましたが、「年が越せない」とは言われていなかった。11月19日に身体の痛みが強すぎて緊急入院。緩和病棟を勧められましたが、首を縦に振らず、消化器外科の個室に入院しました。11月の落語研究会は、病院に許可をもらって、この病室から電話で指示を出しました。12月2日は、柳家小はぜ勉強会の日で、会終了後に病室に行くと、びっくりするほど元気で、「都民寄席の原稿を書かなきゃだから、今日ざっと考えて明日書こうと思う。調子が上がってきたから、やっと書けそう。パソコンを充電しといて。」とごきげんでした。病室に持ち込んだノートパソコンを充電して、しばらくたわいない話をして、子ども達に夕飯も作らなきゃならないし、その日は帰ったのです。「じゃあまた明日来るね〜」「あいよ、気を付けてね〜」これが彼との最後の会話でした。なんて軽い。ただの挨拶。

なんで帰ってしまたんだ。現時点で人生最大の後悔事案。翌日病室に行くと、すでに彼の意識は朦朧としており、もう何を言っているかもわからない。呼吸も苦しそうで、視線は宙を彷徨っています。夜中はうわ言を叫びました。そのうわ言のほとんどが落語研究会のことでした。「はーい、はじまりますよー、準備はいいですかー。」医師には「強い鎮静剤を入れましょう。楽にはなりますがもう意識は戻りません。眠るように・・・そうなりますが、どうしますか?」と決断を迫られました。ちょうど、夫の妹が函館からこちらへ向かっているところでした。結局、妹には会えず、12月5日の夕刻、亡くなりました。

結局彼は、仕事の引き継ぎどころか、病状すらほとんどの方に話すことなく逝ってしまいました。あの時は、たくさんの方にご迷惑をおかけしました。よく「強い人でしたね」と言ってもらうのですが、私はそうじゃなくて、怖かったんじゃないかなと思っています。死を受け入れるのが怖かった。自分がこの世からいなくなることが怖かった。ここまで頑張ってきたことが終わってしまうことが悲しかった。だから誰にも言えなかったし、言いたくなっかった。口にするのが怖かった。

私も悲しくて悔しかった。けど、ずっと悔しがっていてもどうしようもない。私は私のやれることをやっていくしかない。最後の5年、鶴川落語会を一緒にやったことで、私たちは夫婦というより戦友になっていました。落語会を共に頑張る同志、戦友。振り返ると、私は夫に甘えて頼って生きてきた人生ではありましたが、最後に一緒に汗をかいた5年間は本当に楽しかった。

結婚当初〜10年くらいは、本当にいろんなことがありました。私も若かったし、彼も尖っていた。お互い譲り合えず、優しくなれなかったこともありました。ここには書けないようなことがたくさんたくさんあったけど、彼の死は同志として悔しく、戦友として悲しかった。

やり残した人間を見送ることほど、辛いものはありません。皆さんも思うように生きて、やりたいことをやって、人生を謳歌してください。私もここから先の人生は、私の足で歩く人生にしていきます。

昭和記念公園で、娘作の花飾りをもらってご満悦
写真が必要になり、家で慌てて撮った写真。亡くなる半年前。
2018年2月。長井好弘さんの追悼記事。載せちゃダメかもだけど・・・


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