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40代2回目のマインドシフト:独立フリーランス5年目の壁

2022年。今年は45才になります。
ちょうど40才になる年に独立しフリーランスになりました。
それまでとは”働き方”も、働くことに対するマインドも変わりました
心地よく過ごし、お仕事はゆるやかに順調。
という状況にわたしなりに満足していました。

そして5年目。
このまま心地よく歩いていけばいい。と思っていました。
でもどこかに違和感が。何かちがう、物足りない感じ、
このまま進んではいけない感じ。
目の前には道があるのに、みえない壁があるようでした。
これが何なのか?はっきりさせたくてジタバタした結果わかったのは、
自分の内側にある空虚感でした。
その空虚感によって、40代2回目のマインドシフトがやってきました



40才:マインドシフトは独立のとき

看護師として病棟で働いていた頃からずっと組織に属する働き方が当たり前だと思っていました。(フリーター&放浪期間はあったけど)
それが、独立することになり、当然ながらマインドシフトがおこりました。
↓↓ そのときのことを振り返った記事です。


上記でざっと書いたフリーランスとしてのマインドセットは以下です。

《 仕事に対するマインドセット 》
・毎年1挑戦: 現状維持はしない
・目先の利益を追わない
・わくわくする仕事を選ぶ
・報酬に恥じない仕事、仕事に恥じない報酬
・挑戦が怖いときはあえて巻き込まれる
・信頼している方からのお誘いは断らない
・仕事の報酬が仕事(実績からの信頼が仕事をつれてくる)
・結果が良くても悪くてもOK。自分の選択を支持する。
・健康第一:睡眠確保と不調のときの早めの対処(念には念を)

《 わたし個人としてのマインドセット 》
・心地よさにわがままでいる
・とりあえず楽しむ、おもしろがる
・対人関係は固定させない、流れをとめない
・年齢は認めつつ、年齢を言い訳にしない
・自分の育成 ~在り方Being、自分を生きること~ の学びを続ける

”仕事そのものをがんばりつつ” 
”自分らしくあること” 
を大切にしたかったようです

ここでのポイントは
主体が「自分」であることです。
”「自分が」お仕事をがんばる”
ということでした。



みえない壁の正体は空虚感


”仕事そのものをがんばる” のは楽しく、現実的な手応えがあって喜びもあります。
にもかかわらず、感じる違和感。みえない壁。
それをどうにかしたくて、2021年の後半は静かにジタバタしていました。
例えば、
・リフレクションやセルフアウェアネスのワーク
・定期的にお願いしているカウンセラーさんに話を聴いてもらう
・フォーカシングのワークグループにお題をだす
・purposeを言語化しようとして(なぜか)コーチングを依頼

こんな感じでずっと何かを探っている感じでした。
とにかく、はっきりさせたかったわけです。

40代、あと元気に働けるのはどのくらいだろう?
この命はどう使えばいいんだろう?
何しに生まれたんだろう?
何もしていない。
仕事はしているけど、何もしていないような感じがある。
みえない壁となっていた違和感をあらゆる手段で掘り下げていったら、
そこにあったのは ”空虚感” だったのだとわかりました



45才:2022年「自分が仕事をがんばる」→ 「仕事を通して役目をはたす」


実際に「この命はどう使えばいいんだろう?」と口にしたときに、
ヴィクトール・フランクルの著書を思い出しました。
フランクルと言えば『夜と霧』『それでも人生にイエスと言う』で広く知られています。
著書の中に、「使命や生きる意味」に関するメッセージが多々あります。
例えば、『それでも人生にイエスと言う』の一文

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、初めから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。
V.  E.  Frankl 著 / 山田邦男・松田美佳訳
それでも人生にイエスと言う 春秋社



今回フランクルの著書を読み返し、
仕事を「通して」役目をはたす
仕事を「通して」人生から問われていることに応える

という感覚がわたしにはなかったんだ。これが必要だったんだ。
やっと肚落ちしました。


今回わたしに必要だったのは、
「自分が仕事そのものをがんばる」
ということから
仕事を通して人生から問われていることに応える」
というマインドシフトでした。


正直、このように書いてみると、
”何をいまさら”と思います。
フランクルの文章を読んだことはあったし、認識もしていました。
「知っている」ことと、
ああ!こういうことか!と気づいて、体感することは全く別物なんだな。とまた改めて感じました。

とはいえ、本当の意味で鮮やかにマインドが変わるとは思いません。
わかったつもりで、怠けるかもしれません。
なので、こうやって書いておきます。

そして、まずはこの1年を
「仕事を通して」「人生から問われていることに応える」という試みにします。
責任=responsibilityの語源は「応答する」こと。責任というと堅苦しい感じもするけど、楽しく応えながらおとなの責務を果たすのもいいでしょ。と思ってます。


さいごに:空虚も悪くなかった。ミドルエイジクライシス


そういえば去年(2021年)のことですが、
心理学者の諸富 祥彦先生のワークショップを受講して、著書である『知の教科書 フランクル』を読み解いたことを思い出しました。(これもすっかり忘れてました)
その中の文章を再読して、
 あの「空虚感」は健全だったのね
 少しは成熟していたということかな?
 ちゃんと「中高年の危機(ミドルエイジクライシス)」を体験したのね
と、安心したのでご紹介します。

「空虚感」に途方に暮れている中年の方はもちろん、これから中年になる方にも何かの気づきのヒントになるのではないかと思います。
気が向いたら読んでみてください。おすすめです^^

フランクルの著書が読まれるのは、人が、それまでの自らの人生の意義を疑い始めた時である。そして、感受性の高い人間であれば、人は、生涯で三度、人生の意味を疑う。
一回目は思春期から青年期の悩みにおいて。
二回目は中年期の危機において。
そして、三回目は高齢になり死の訪れを感じることにおいて。
したがって、フランクルは、人の人生で、三度読まれることになる。
中でもとりわけ、フランクルの熱心な読者は、
30 代後半から 60 代にかけての、中高年の危機(ミドルエイジクライシス)においてである。


中略


大人になり、完璧主義から脱却し、心に少し余裕ができてきたからこそ、自らの内面の空虚に目を向ける余裕が生まれてきたのだとも言える。

人生がある程度、空虚であるということは、そんなに悪いことではない。
それを認めることができるようになったこと自体、人間としての成熟の証である。

大人になり、成熟し、「自分」という「心の器」がしっかりと築き上げられてきた今だからこそ、「自分」の中にぽっかり空いた「穴」の存在にも意識を向けることができるのである。

そして、そんな時、多くの人が手に取るのが、フランクルの本なのである。
諸富 祥彦
知の教科書 フランクル


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