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自傷の代替としてのホラー?

わたしは、自分が抱えているもやもやを霧消させるのがうまくない。
まず、このもやもやが何かというのを書こうとして、「怒りや不満や不安や恐怖や……」と4つくらい挙げたところで考えるのをやめてしまった。だから、自分のなかにあるもやもやを言語化して分析して整理して並べる、といったことがなかなかできない。
また、言語に頼る以外の方法でもやもやをかき消すこともうまくない。たとえばもやもやを音楽に変換してみるとか、絵に変換してみるとか、そういったことが上手ではない。
だから、過去には実家の壁を蹴って穴を開けたり、木刀をどこかに叩きつけて折ったり、自分の腕を切ったりすることでなんとかそのもやもやに消えてもらっていた。

大切な人と出会い、そうしたことをしなくなって久しいけれど、最近、心霊ドキュメンタリーを部屋で流しているときに、ふと上記に書いたタイトルのようなことを思った。
あるときからわたしはホラー映画を好きになり、そのあとにホラーゲームを好きになり、ひいてはホラーやオカルトといったものとして分類されるもの全般に興味を抱くようになったのだけれど、なぜそれらに惹かれるのかいまいち自分の中で整理しきれずにいた。いまも整理できたわけではない。だからこの記事のタイトルの最後にもクエスチョンマークがついている。また、ホラーに惹かれる理由が自傷の代替とは明らかに異なる部分にもあることはわかっている。とはいえ、ホラーにふれているときに感じる落ち着き、ある種の浄化作用(?)のようなはたらきを自分の中に感じないということはほとんどなく、そのはたらきが自傷行為をしたときの感覚に近いように思えたのだ。最近、急に。

が、わたしのなかで起こっているその作用について言語化するには例によって気力が足りない。ので、これについては頭がいまよりかはぼんやりしていないときに、また続きを書くかもしれない。

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