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生い立ちパズル⑮ piece:自分の種をつくる

変わらないようで変わっていく日々。
子供の頃は 先を意識して 考えたり見ようとしたりすると
途方もない暗闇が広がっている感覚でした。

今の場所から見ると
いつの間にか 先はもう そう長くない気がします。
わたしには 死は悪い印象じゃないです。
終わり方は いろいろと思うところありますが、
 生まれてきたら 死ぬのは当たり前のことです。

生まれて死ぬ、その間の時間を、
この目の前の人生の景色を、
滅多に来れないこの世を、
楽しむんです。

(すぐこの世に来るかもしれませんけど)


とにかく、とんでもない速さで
時は進んでいます。
悔いのないように、という言葉がありますが 悔いはあって仕方が無いものです。

気づいたところから
また そうならないように、
せっかくの旅を満喫するぞ!的な気持ちで
 生きたいです。

思いきり。



 父と母とわたしと、三人の暮らしが始まって 高校生までの『生い立ちパズル』ですが、ざっと思い出したものしか 書けませんでした。

書いていると
大したことない気もするのですが、
当時は 必死だった気がします。

 常識が違う、感性が全く違って 受け入れられることの無い世界で
 ただ そこにいるしかできない子供の頃。

苦痛なんだけど
それが 日常となると、
それが 普通になって、

苦痛は苦痛ではなくなります。
苦痛が普通になります。

ふつうになっているから
なんにも感じていないようですが
心と身体は ひとつで繋がっているようで
知らず知らずと 身体にも 負担があるようです。

むかしの精神的な病気は 根性論で ねじ伏せられていたので 
自分が弱いのか、と 更に追い込んでいました。

ただ…、
わたしには それが合っていたし、
それだからこそ
生きていく姿の方向性に気づけたのだと思います。

必死でしたけど(笑)


 当時は、大人が大嫌いで
あなた達のような大人にはならない、と 親戚の人の前で 言ったことがあります。
「大人になったらわかる」
と言われましたが

「なら 大人にはなりたくない、ならない。少なくとも あなた達のようにはならない」
と言いました。

 結果、年齢や見た目は大人にはなったけど 全然 変わらなかったです。

『あなたたちのような大人』は
わたしが大人になった今もいます。
そして、多いです。

姿かたちを気にして
人目ばかり気にして
中身が幼い。

それも 必要な時もあるのはわかります。

うん。
わたしには興味がない。
それだけです。



いつだって
常識をぶち壊せる大人になってしまいました。

ぶち壊せると言っても
周りの調和やらなんやら 考えて
ここは言わない方がいいところ、
言うべきところ、という判断はします。


 『生い立ちパズル』は
とりあえず、高校生の話で終わります。
大人になってからも いろんなことがありました。
そりゃもう 大変でした。

大変だったけど
いろんなことを考え、
いろんなことを知りました。

おかげで 自分で考えて 選ぶ頭ができました。


それなりの協調性は 持ち合わせています。
プライベートは 思いきりマイペースですが。




ここから 更に少し だらだら書きます。


あの家庭環境で 生まれ育ってよかったことは、
最初から 孤独の中にいられたこと。

 寂しかったけど
孤独は それほど 悪くはなかったこと。

人間は 好きになれないままだけど
ひとりひとりが 見えるようになったこと。

魂を愛せるようになったこと。

この世のすべては 自分だと 思えるようになったこと。 
頂点にいる、とか そういう偏った視点からではなくて、
嫌なものも含めて すべて 自分なのだな、と感じています。

人は鏡と言いますが、
相手の言動を不快に思った時、
その不快な思いを 相手に残すのではなくて
言葉の捉え方や使い方も違うのだから
もしかしたら
あの不快な言動は 立場変えれば
自分が誰かにやっていることかもしれない
、と考えると
自分を振り返るきっかけができます。 
鏡のように。

自分を 見直すことができます。
気をつけることが出来ます。


自分自身では 意識できていない自分だったり、いつかの自分かもしれないし
または、
これから自分も そんなふうに 他人に不快な思いをさせる立場になるかもしれません。






この場所から 振り返って 歩いてきた道のりの景色を見てみると
わたしは ここに来るための道のりを 歩いてきたんだなぁ、と思います。

近道があると言われても
自分で確かめたいようです。

魂が そちらの方が 好きなようで
もうひとつが選んでいるように感じます。


幸せになる方法より
自分で 見て感じて
アンテナで拾って
行きたくなくても 行かなきゃいけない気がして 選んで
周りからは 生き方が上手じゃないように見えるかもしれないけど

結局は わたしの もうひとつがたどり着きたかった場所。
ひとりのわたしを連れてきたかった場所に 今 いる気がします。


泥臭いのが好きです。


ずっと かっこよくいたいというのは あります。
こうしたいけど
それは かっこ悪いという基準で 強くあれた気がします。
かっこいい選択をしたいです。


選択する潔さは かっこよく、
歩き方は泥臭く かっこ悪いくらい一生懸命なのが 好みかな。へへ。


誰の救けもなかった生い立ちですが
祖父母は 他人の悪口は一切なかったので
そこは 恵まれていたのだと思います。
嫌な言葉を聞かずに済んだ。

まあ、それで
義父や義母の愚痴も言わせてもらえずで 結構 鬱憤が溜まったこともありますが。

今となっては、
わたしは そういう場所で育ったことは とてもよかったです。


ちなみに、
救けもなかったというと
こうして生きてこられたのだから 救けはあったのよ、と言う方もいますが

わたしは 救けがなかったと 感じているので どう言われても その感覚が変わることはないです。

何度も何度も
『思い』を洗濯して漂白もしてみたのですが
これは 変えられなかったので
そのままで 持っておきます。


この感覚も 今 役立っています。
子供たちのことも
やんわり包んで考えられています。

同じ人生は歩まないし、
それぞれが決めて
それぞれの幸せを 見つけられるといいと思います。


環境で
自分の種がつくられていく気がします。

気がつけば、
手のひらに そっと 見えない小さな種を握っているかもしれせん。

そのうち 芽が出てきます。
この感覚も いつかちゃんと書けるといいな。



 自然の中で、救けになったきっかけは
たくさんあります。
知らない人の言葉や笑顔で
救われたこともあります。
いっしゅんの出来事で たくさん救われました。
動物たちや 植物や 宇宙や 夢も
なかなか 見れないものを見せてくれたり、
驚くようなタイミングをもらったり。

それに気づけたのも
孤独だったからかもしれないです。


いっしゅんの景色は
ずっと残っています。
なんとなく 残っています。



高校時代のこぼれ話は、また別の形で書きます。
書きたいので書きます。



この後、『生い立ちパズル』続編として
祖父母、父母、義父のお別れの話を書こうと思います。


ここまで お付き合いくださって ありがとうございます。





  𝓉ℴ 𝒷ℯ 𝒸ℴ𝓃𝓉𝒾𝓃𝓊ℯ𝒹

















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