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『すずめの戸締まり』に垣間見える保守的傾向

本日、ようやく新海誠監督の映画『すずめの戸締まり』を観ることができた。

感想としては、「のめり込むほどじゃないけど、観て良かった」というものだ。

(以下、ネタバレはあまりありませんが、気になる人は映画を観てからお読みください^^;)

恋と、東日本大震災

映画の世界にのめり込めなかった理由は、今の自分が、恋や愛の力をそこまで信じてないからだろう。

主人公・すずめの行動の原動力になるのは、宗太への恋だと思う。

その一方で、年齢のせいか、もともとの性格なのか、自分は、恋や愛をもう少し打算的に考えがちだ。

なので、すずめのまっすぐな恋を見ていて、ちょっと置いてけぼりというか、なんだか他人事のように思えてしまった。

その一方で、「観てよかった」と感じたのは、東日本大震災で傷ついた人々や、日本社会に対して、新海誠という人の肉声が、この映画にストレートに表現されているように思えたからだ。

その熱い想いに、特に最後のほうは、涙ぐむ場面もあった。

そんな熱さがある本作品だからこそ、深く考えさせられた点があった。それをここに記しておきたい。

「喪失に怯える時代」の思考

『すずめの戸締まり』のベースのひとつになっているのは、村上春樹の短編『かえるくん 東京を救う』だろう。

『かえるくん、東京を救う』は、こんなストーリーである。

東京の信用金庫で返済金の取り立てを行う主人公のもとに、「かえるくん」と名乗る、かえるみたいな見た目の存在が現れて、「一緒に東京を救ってほしい」という。

東京の地下には「みみずくん」と呼ばれる存在がいて、それが地震を引き起こすので、止めるために一緒に戦ってほしいというのだ。

かえるくんはなぜ、全く目立たない主人公に声をかけたのか。それは、彼のように、見えないところでコツコツと働いている人々の地道な努力によって、この社会が支えられているためだ。

↓以下の解説がわかりやすかったので、リンク載せます。

『すずめの戸締まり』にも、かえるくんに近しい存在として、「閉じ師」が登場する。

彼らもまた、人々からほとんど省みられることのないところで、世界を守っている存在だ。

僕たちの生が、見えない人々の努力によって支えられているということ。このことは、深く共感できる。

実際、僕達がこの世界で生きて生活ができているのは、食べものをつくってくれる農家の方々、水道や電気といったインフラの関わる仕事をしている方々など、多くの人の働きのおかげだからだ。

ただ、同時に思うのは、そうした人々を称揚できるのは、「ある程度、社会が安定している時代」だからではないか、ということだ。

これは、『仮面ライダー』みたいな勧善懲悪のヒーローものなどにも通底する思考だと思うが、「今の社会を脅かす存在がいるから、それを排除する、あるいはそれを鎮めなければならない」ということ。

それは裏返すこと「今の社会を安定させることこそ、大事なこと」あるいは、ちょっと誇張していうと「今の社会がサイコー」ということだ。

でも、僕たちの今の社会は、そんなにサイコーなのだろうか。

人口減少や環境問題などを考えても、むしろ、今は社会を変えていかなければいけない時期なのではないか、と思うのである。

(前回、そんなことをこのブログにも書いた)

日本社会におけるポピュラリティについて

といいつつ、新海誠がその点に気づいてないかといえば、そんな単純な話ではないと思う。

実は、前作の『天気の子』では、むしろこの点をかなり深堀していた。というのは、『天気の子』は、ヒロインである天気の巫女・陽菜の人身御供を回避することで、東京の雨が止まなくなるという形で世界が大きく変容してしまう。

でも、主人公は最後、ふたたびヒロインに会ったとき、「僕達は大丈夫だ」という。

つまり、「いろいろと社会は変わるかもしれないけど、どんな社会になろうとボクたちに愛とか恋があればオッケー」「最後に愛は勝つ」

という話なのである。

これはこれで、たしかにそうかも、という気もする。実際、愛とか思いやりは、どんな時代になろうと大切だと思うからだ。

(実は、最初この作品を観たとき、あまり好きになれなかったのだが、今思い返してみると、すげー踏み込んだ作品だったな、と思うのである)

もっとも、今回はむしろ、過去の痛みに向き合うことを重視した作品になっている。

で、ここは僕の推測なのだが、多分、今の日本社会でポピュラリティを得るためには、あまり「変革」的な要素を入れないほうがいいんじゃないか、ということなのではないか、という気がする。

変革には痛みを伴うものだが、今の日本社会はまだ、痛みに耐えるよりも、「失いそうな不安でいっぱいだから、慰めてほしい」という傾向が強いんじゃないか。

「変わる社会を受け入れて、積極的に変える方になろう」というより、「過去に痛みがあったけど、大丈夫」という作品のほうが、売れるんじゃないか、という気がする。

ビジネスとして興行する以上、当然、売れる作品を作る必要があるので、それで、もう少し今回は保守的な方向になったのではないか。『すずめの戸締まり』を観ていて、そんな気がするのである。

そんなことを考えていて、僕は、自分の町のことを思った。

三豊は、いろんな点で今、社会実験の途中である。いくつか進んでいる事業の中には、ビジネス面での採算などが不安なものもあるが、失敗なくして、痛みなくして進めない時代に僕達は生きているのではないか。

その一方で、資本主義の時代のこと、ものごとを持続させるためには、ポピュラリティはそれなりに必要だ。

マーケティング理論でいうところの「アーリー・アダプター」とか、そういった話にもなってくるだろうが・・・・・・。『すずめの戸締まり』を観ていて、改めて、自分の生きている今という時代の複雑さを思った。


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