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日記 わたげではみがき

たんぽぽで歯を磨いている。

いや、急におかしくなったわけじゃない。本当のたんぽぽは苦い。歯磨きには向かない。

「たんぽぽ」という名前の歯ブラシがある。

ふつうの歯ブラシと違って、持ち手の軸を中心に、360度全てに毛が生えているのだ。普通の歯ブラシは髪をとかすクシに近いが、これはデッキブラシとかタワシとか、そういう形のブラシに近い。これがなんとまあ、便利なのである。

まず、ブラシと歯の「設置面」を考えなくていいのだ。おかげで手にかかる負担が少なく、不器用な私でも使いやすい。とりあえず毛を歯に当てて擦るだけできれいになる。

たんぽぽはその構造上、毛が生えていない軸の部分がないので「硬いところが歯茎に当たって痛いんだよな」ということもない。

私はこのたんぽぽのおかげで、歯磨きという行為が楽しい時間になった。ありがとう、たんぽぽ。もっといろんなところで売ってくれ。

たんぽぽと言えば、こんな思い出話がある。

ある日、同じ情緒学級でいつも歯磨きを嫌がる男の子がいた。彼は私より年下の子だが、普通の教室内に混ざるのは上手くいかないから、という理由で同じ情緒学級の教室で毎日勉強をしていたのだ。

彼は、言葉を使ったコミュニケーションが苦手だ。けれどマリオカートとフラフープが好きで、その話をする時は誰よりも輝いていた。

しかしそんな彼の輝きが、給食後の歯磨きタイムになると失われてしまう。それを少し悲しいと思っていた。

ある日。私が使っている歯ブラシが、普通のものと違うことを彼に気づかれた。彼のスキルツリーは「観察眼」と「知的好奇心」がかなり育っている。「みずのちゃんの歯ブラシ面白!!!!なにそれなにそれなにそれなにそれなにそれ!!!!」と向こうが特攻してきたので、私も「わはははは!!いいだろ!!スゲーんだぜこの歯ブラシ!!」と応戦した。

左利きの人用のハサミとか、普通の文字の上に点字で同じ内容が刻まれている絵本とか、そういう「普通の形から外れた普通の日用品」を面白がる感性を、彼も持っていることが嬉しかった。

で、それから。もしかすると彼も歯磨きの楽しさに気づけるかもしれない、と思い、担任の先生と相談して彼にたんぽぽの歯ブラシを渡した。ネット通販のない時代だったので、先生がお店で大人用のたんぽぽを買ってきた。

そこからはすごかった。

その歯ブラシを咥えてみた途端、彼の目はものすごく光った。いつもは30秒くらいで歯ブラシを片付けてしまう彼だが、その日の彼は15分くらいずっと流し台に立ったまま、歯磨きに熱中していた。そしてその後の授業もツルツルピカピカになった自分の歯を舌で撫でては「これが……私の歯……?」と感動していたのだった。わかってくれたか、歯をよく磨くことの楽しさが。

それ以来、彼は給食後の歯磨きも楽しいミニゲームに変えていた。彼は好奇心旺盛で、観察眼が鋭く、凝り性。なんにでもゲーム性を見出すのが得意だった。

しばらくして私が学校を卒業することになった時、彼のお母さんと挨拶した。

「あきらちゃん、◯◯くんにあの歯ブラシおすすめしてくれてありがとうね」と、感謝されてしまった。

卒業式について考えるたび。校舎内のフローリングや桜色の風景と一緒に、私は流し台の前で歯を磨き続ける少年の背中を思い出すのだった。

マシュマロに答える時間だ。

メッセージありがとうございます!前回上げた絵のお話ですかね。

あの絵は使う色を全て青系で統一しました。でも顔を描く時は、肌の血が集まって赤みのある部分だけ色を塗ったんですよね。鼻の頭の方とか、目元と頬間とか。その辺りのこだわりが伝わっているようで、嬉しいです。ありがとうございます。

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なんでも知識と活字で補ってしまうので、「自分で発見する」という行いをできる人が羨ましいなと思う。

例えば、そう。

「バナナとかみかんって、人間の手で皮が剥きやすい上に種が入ってなくて美味しいのすごい。人間向きの食べ物すぎる」とか。

「水って0℃でちょうど氷になって、100℃で沸騰するのって出来過ぎじゃない!?」とか。

「なんか毎年雨降る時期ってあるよな」

みたいな。

そういう、自分だけの世界で生まれる“発見”である。私はそういうことを思いつくたび、すぐに本やGoogleでその理屈を検索して納得してしまって、世界に夢を見ることができない。

バナナやみかんの皮が剥きやすくて種が入っていないのは、そういう品種が生まれるようにたくさんの農家や科学者が頑張った結果の、努力の賜物。水が0℃で凍って100℃で沸騰するのは、摂氏という単位の基準に水という物質を選んだから。毎年の雨が降る時期は梅雨という名前がついており、日本という土地ならではの季節である。

知識があると、空想の世界も知識に根ざしたものになる。空想に知識の根が張っていると、知識に根ざしていない荒唐無稽な空想を見た時。あちこちに知識の根を張っている私は、自由な人々を見て、己の無知蒙昧さと血の冷たさに思わず笑ってしまうのである。

浅井音楽さんさんの作品集「しゅうまつのやわらかな、」という書籍を買った。

やっぱり紙の本に触れるのは楽しい。Kindleのスマホアプリや電子ペーパー端末も嫌ではないのだけど、やっぱりプロの装丁のデザインには惚れ惚れとする。表紙の絵をじっと見て、さらさらしたカバーを撫でていると、これから私は著者の内的世界にお邪魔するぞ、という気持ちになれる。

新しい紙の香り。カバーと帯の手触り。本文の字のフォント。挿画の色味。その全てがどこか現実から離れていて、自分自身も本の中の世界に飛び込んだんじゃないかと錯覚する。

木々から漏れるお日さまの光。大きなゾウの重みと、ざらついた灰色の皮膚。暗渠、薄い鉄板の上を歩くときの、頼りない気持ち。カニに指の肉を挟まれた時の、「本当」の痛さと、潮風の香り。つるつるしたカニの甲羅。のたりのたり揺れるさざなみ。フードコートの音の反響。プラスチックのトレーの手触り。擦りむいてひりひりした足を見つめながら撫でる、アスファルトの熱。

自分自身の心に置いていった柔らかな記憶たち。その全てを幻視してしまった。

「しゅうまつのやわらかな、」いい本です。おすすめです。

分厚い方のカーテンを開ける。光が差し込む。空の青色が降り注ぐ。窓を開ける。冷たい風と共に、外の世界と自分が接続される。寝室と居間の間、扉を開ける。

どこかの扉を開ければ開けるほど、目に映る空間が広ければ広いほど、自分の心の居場所が狭まって、縮んでいくような気がしてくる。世界は広がると、こころは小さくなる。

窓を閉めて、カーテンを閉じて、部屋の明かりを消して、布団の中に潜った。私の世界になった。

「開いていると狭くなる」「根を張るとつめたくなる」ってSNSの運用とも似ているかもな。他者や知識という“意識の外の世界”が常に在ると、多かれ少なかれ、縮こまって緊張してしまう。

この緊張がずっと続くと、緊張していないときの自分の身体を忘れてしまって、さらに緊張で固くなってしまう。やがて体が石になって砕ける。

自我をコンパクトにしたい時はいいのかもしれないが、そうでないときはいっそ、外界との接続を切ってしまってもいいのかもしれない。スマホの電源を切りながら、そう思うことにした。

YouTubeで何かが「修復」されるのを見ることが好きだ。

古すぎて弦が切れたりネックが擦り切れたアコースティックギターとか、基盤が錆びついたゲーム機とか、ジャンク売り場に置かれていたゲームソフトとか、布の表層が剥がれて綿もぼろぼろになったぬいぐるみとか、錆びて使い物にならなくなった包丁とか。

とにかく、古びたものを一度分解して、少しずつ掃除したり、修復したり、新しい素材を当てがったりして、綺麗な姿に戻っていく様子を見るのが好きだ。

壊れた機械は美しい外装ときれいな基盤でまた働けるようになり、ぬいぐるみはふわふわした愛くるしさを取り戻し、ギターは美しい音色をもう一度奏でて、包丁は鋭い切れ味を得てまた便利な道具に戻る。

こういう理由で医者を目指した外科医とかいるのかな。

人のために貢献したいとか、そうではなく。人体という複雑な構造物の故障を、ただ「修理して、在るべき形に直したい」という感情によって働く人。いないとは言い切れないかも。刃をよく研ぎたいから、という理由で刀匠を目指す人だっているしれない。

じゃあ、今日はこの辺にしようかな。長くなってしまった。またね。