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日記 もうおしまいにしようね
最近記事が妙に長いけど、この長さをデフォルトにしたくはないな、の気持ちがある(めんどくさいから)。みんないつもありがとね、の気持ち。グラシアス。
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宝石の国最終巻読みました。
なんか……すご!!!!!!!もう一度頭から読み返したくなった!!!!!!!(あらゆる場所に配慮した感想)
宝石の国、じつは単行本の2巻か3巻くらい出てた頃から追ってたので……よかったなあ!!と思いました。いい話なので読んで欲しい。おすすめです。あとなるべく物理書籍で買ってほしい。作者さん自身が装丁を手掛けててめっちゃ良いから……
私の漫画の趣味は、宝石の国と、めだかボックスと、真月譚月姫でできている。
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さて、怠惰万歳。いつも通りコーヒーでも嗜みながら読書しますかね、マンネリバンザイ。と思っていた束の間、とみやさんの「小柴ミラクルマルチバース」を読み、震えていた。
https://ncode.syosetu.com/n3718jo/
この小説はタイトルの通り、異なる世界の人間や事象を呼び寄せてしまう特異点少女“小柴未来来(こしばみらくる)”ちゃんの物語である。この時点で何か引っかかった人、すぐ本編を読んでください。良いので。
まず第一話を読んでいて、やっぱり変身ヒーローっていいな……わかってる人のヒーロー要素の拾い方だな、ジュブナイルっていいなあ……と思った。それからスーパーゾンビパンデミックラブロマンススペースオペラ銀河大決戦となり(????)、あどけない無垢な恋心って、いいなあとしみじみ思った。そして学園ミステリー編が始まり、私は衝撃を受けた。
超能力探偵“器械運動零奈”さんの登場である。“器械運動”が苗字らしい。すごい名前。
これまではあくまでも『事象の語り部』として立っていたミラクルちゃんだが、零奈さんの在り方は他と比べやや特殊であり、ついにミラクルちゃん自身の過去に切り込むことになる。これは第三の目を持つ探偵が“信頼できない語り部”の謎を解き明かすターニングポイントであり、まさにミステリーで言うのなら推理編に対する解答編。
痺れたね。
でも、なんというか物語とかシナリオの良さとかは一旦セーブするとして、まず「女の子の苗字に器械運動って付けよう!」という胆力がヤバい。他の人々も色々すごい名前してるし。ミラクルちゃんだけすごいのかと思ったらそうでなくてびっくりした。人がアイデアを意識して生み出すときは、閉じている空間内を徹底的に磨くか、とんでもないところに穴を開けて改造するところから始める必要がある……ということですね。
けれどこの作品のすごいところはそういう人名のアイデアだけではなく、新しい情報が提示されるたび常に“見えない伏線“が回収されるカタルシスがある。本編より先に劇場総集編とか資料集を先に見て「えっ!?」となる感じ。「あのときあんな事が起きたんですよ」と後からいきなり提示されて、でもすっと受け入れてしまう。その上で「自分と他人は通じ合えないからこそ、お互いの変な部分をつつき合って、折り合いをつけていこう」というちょっとねじれた人間讃歌が良いなと思ったのだ。
濃い味付けをいきなり飲み込んでしまった、と思った拍子にすっと後味が爽やかになってきて、いつのまにか飲み込んでしまっている感覚。重たい油物がいきなり水物に変身するような。
そんな感じで小柴ミラクルマルチバース、読みましょう。おすすめです。
https://ncode.syosetu.com/n3718jo/
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世間一般のイメージと比較して、私は病院や保健室といった空間に抵抗感が少ないのかもしれない。むしろ安心感すら覚える。しかしその安堵は、専門家がいるから安心できるとか、病んだ自分を支えてくれる理解者がそばにいたとか、そういうことではない。
記憶の古い部分を辿っていくと、まず幼少の頃の私は肺炎に罹って入院していたのである。その入院の日々は常に退屈で暇を持て余していて、友達からのお見舞いも、激励が書かれた色紙も、なにもないままベッドの上で息苦しさにのぼせていた。が、そこに寂しさはなかった。もちろん母がつきっきりで面倒を見てくれたという部分もあるのだが、私は3歳児頃から既に自身の脳の発達に悩まされていた。
聴覚過敏は骨から届く自分の声さえも耳障りに感じ、私は滅多なことで泣かなかったし、人と喋る時に声も出さなかった。
だが本来幼稚園児とは、でかい声を出して周りに「私に構え!」と大立ち回りをする生物である。そう、一般的には。私は幼稚園で過ごす事がかなり嫌だった。誰も彼も耳障りな音を立て、一世一代のシャウトをかまし、一斉に楽器を打ち鳴らし、私には理解できない言語で語らい、皆が私を“邪魔な弱いもの”として立ち振る舞うのだった。
当たり前といえば当たり前の話だが、病院は基本静かなものである。隔離病棟で子供の甲高い大声なんてそうそう聞かないだろう。そうしてようやく私は静けさというものを知り、心の底から安堵してベッドに臥したのだった。
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私はいつも人の気配のない、静かな場所が好きだった。
保健室にいるときも心が落ち着いていたし、授業を抜け出して保健室に歩いていく中、職員室の前を通る時の廊下も好きだった。誰もいない図書室が好きだった。みんながドン引きして離れていく中、ひとり掃除道具が入っているロッカーの中に立てこもるのも好きだった。机に布を敷いてその下に潜るのも好きだった。薄暗い、完全な密室が好きだった。
それでも校内全ての他者は私に「関わり合いなさい、賑やかでありなさい、笑顔でいなさい」としつこく干渉を繰り返す。学校という空間にいる限り、私はいつまでも救われないのだと深層意識では理解していた。ずっと「本当の本当に学校の敷地を抜け出して、自宅まで走って逃亡したい」と空想していたが、その度に自分の首根っこを無理矢理掴まれて、引き戻される悪夢を幻視し、落ち込んでいた。昔から、たとえ夢でも希望を持てないのが私だ。
無理をして毎日通学路を歩いていた。でも、気がついたら限界だった。自力で家から出られなくなった。ランドセルに触れるだけで、猛暑日なのに身体が冷えた。教科書の紙の冷たさに吐き気がした。自分が大人にも子供にもなれない半端者なのだという事実が嫌だった。
大人は大人である限り、また子供は子供という立場である限り、みんな自分の“位置”に居続けることに必死で、毎日が大変で、だから何も変われない。
そういう意味ではみんな、同族嫌悪を抱えているのかもしれない。病院が恐ろしいのは、病んで弱くなった自分を想像するのが恐ろしいからだ。人と人は分かり合えないのだと心が折れて、ひとりで歩けなくなって、母親が押す大人の自転車に乗って家に帰ったとき。あの日から、私は私のままだった。
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私はたとえ夢でも希望を持てない、とさっき上で書いた。が、その点を解消しようとして夢日記をつけ、明晰夢を見るための努力していた時期もあった。しかし目が覚めたとき悲しいのは、明晰夢もただの夢も変わらなかったので意味がない。
そもそも現実的にものを考えたくないから夢を見たいのに、そこで意識を明瞭にしてどうするんだ。
悲しい。何が悲しいって、夢を見ている間は「もう死にたい」「今この現実が苦しい」という感覚が麻痺していて、自分が本当に生きている喜びを噛み締めていた。それが目を覚ました途端、いつもの後ろ暗い最悪な現実に引き戻されて、また「もう死にたい」と思ってしまう自分自身が悲しくて、およそ最悪だった。
いよわさんのIMAWANOKIWAを聴いていると、その時の精神が呼び起こされる。これはノスタルジーとも言えるから悪い感覚ではないけれどね。
人が甘ったるいハッピーエンドを求めるのは、自分自身が幸福でないから。不幸とはひとりでに足が進む事であり、答えのない幸福とは酩酊と停滞である。
なんか、そろそろ(いや、いつでもいいんだけど)この頃の気持ちを成仏させてあげたい。今は(少なくとも精神は)健康なのだけど、過去の最悪な記憶が足を引っ張って、また昔の自分に戻りそうになってしまう。
メロドラマはもうおしまいにしようね。
というわけでここまでにしよう。明日に悪夢を引きずらないために。
また今度!